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+翡翠の玉座+
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先月日本各地を襲った今年初めての大寒波は僕の住む街にも雪をもたらした。 降り始めた雪に気付いて顔を上げると一片唇に溶けて、ある歌の一節を思い出した。 テツヤには昔その歌の話をしたか、話そうと思って結局話さないままだったか定かではないけれど、きっと今回に関しては口付けてくる雪の一片に対して情緒に浸る余裕もなかっただろうね。今季一番の寒さが更新されないことを祈るばかりだがこのまま春を迎えるなんて事は難しいだろうな。 先日友人が話題に出した本のタイトルはテツヤが昔戯曲の話の折りに話していたもので懐かしさを感じたのと表紙が綺麗だったから購入した。話の内容は知ってはいたがちゃんと最初から最後まで読んだ事はなかったから良い機会だと思ってね。 小説ではなく、役名と台詞が載っている舞台台本のようなものだったから描写は最低限しかなく一日と掛からず読み終えることが出来た。舞台で見たらまた違った印象を持ちそうだ、案外最初から最後までほの暗さを孕んでいて面白かったよ。 感情によって、人は狂う。 自分がそうなる事を許せないのは今でも変わらないけれど、それでも感情を全てなくすことは出来ないのだと、想いはなくすことは出来ないのだと、理解はしている。 ただ内に秘めて誰にも見せないまま、まるで胎児の様に自らの熱だけで暖めて、心中するのも悪くない。 一つ、また一つと、生きていると色々と巡る機会の中で自分の中で夢と迄は言わなかったが、…実際叶うとも思っていなかったから夢だと豪語する事も無かった密かな願望が叶う時がある。 そんなとき、案外喜びはないものなんだなと知った。僕の場合、叶う時より叶うかもしれない時の方が心は動いているようだ。 実感として湧かないと言うのも一つ、それを享受していいのか悩むのが一つ。 それでも、享受してそれを糧にまた生きていくのだけどね。 去年は二つ、念願だったが期待もしていなかった事が叶った年でもあった。 今でもあまり実感として湧いてはいないが多分少しずつ、身体に浸透していくんだろうね。 先日友人との食事の折に「どんな幸せを掴みたいか」という話題に「僕は今十分に幸せだけれど」と答えて、あぁ僕は幸せだった、と改めて感じた。 その時は何か深く考え込んで答えを出したわけじゃなく、色々と苦もあり酸もあれど根本的に僕が必要としているものは揃っていて、手を伸ばせば更なる幸せも有るかもしれないがそうしなくとも十分に、十二分に幸せなのだと、感じて自然と出た自負だった。 テツヤの存在もその一つだよ。 幸せと不幸せなんてものは表裏一体で、手の中に納まりきらない幸せなんてものは僕を窒息させしてしまう。背伸びをしてまでの幸せなんて不幸せと変わらない。重さで潰れてしまえば、足元に落として壊してしまえば、足元から恨めしげに見詰められてしまえば、塞がった両手では拾い上げられないことに気付いてしまえば。 多くを望まず、期待もせず。 そうしていると人の好意と言うものがちゃんと正しい形で見えるような気がしている。 光だけを見続けると目が慣れてしまって他の光の眩しさを感じなくなってしまうような、あんな感覚に似ている。 幸せを咀嚼して、多くを飲み込めない喉でも飲み込めるようにしてからゆっくりと体内に落としていく。 テツヤが贈ってくれた写真と共に僕の中の好きな花がまた新たな理由をもってして増えて。 好きなものが増える事は時として大変ではあるけれどそれもまた幸せな事だ。 終活とまではいかないが、身の回りの物を減らそうと整理していく中で躊躇ってしまうものがあるというのは案外それだけで幸せなのかもしれない。 躊躇う程、生きていた証になる。 僕は何でも時期を見て一気に捨てる方だったけれど、これは捨てない、と大事にしまい直す事も案外嬉しい事だな。 ……未だ距離感が掴めない僕は何処までなら許されるか首を傾ぐばかりだけれど。 そんな悩みも幸せと呼んで良いのかな。
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