私雨
先生の書斎に忍び込んで読んだ本の中に「差す傘から雨が降っている人物」が出てきたことがある。あのひと──ひとで良いのかは別として──は、そういう幻想的なものを好む節があるんだ。仙獣や仙人の「解釈」として読んでいたのが単なる趣味になったらしい。前にも一緒に読んだ本の一節に、「こちらの本に出てくる濡れた箇所が透明になる塗料というものはかつて存在していたんだ。とある仙果を潰して煮詰めたものなのだが、かの仙果と創作物で色の描写の肉薄が見られる点が興味深い」だかって解説をしていた。と、不思議な男の話だったね。文脈はさておき、あれこそ「私雨」の最たるものなんじゃないだろうか。
きっとページを捲っていくと「私雨」の記述を見つけられる。あれは要約すると「先生は俺のものだから私雨にした」くらいの内容でしかないけど(※)、今日は指摘に応じて「雨」、私雨じゃない雨について書こうと思う。
雨は雨だ。スネージナヤでは夏の盛りに降って、いいだけ道の雪をぐしゃぐしゃに溶かした後にスケートリンクを作る天候。馬車が遅れる原因。魚釣りにおいては天敵。地中で融けた雪の湧き水があるから飲み水に困らない冬国では恵みでもない。フォンテーヌの地名になっているらしい「ペトリコール」や「ゲオスミン」なんて言葉を認識してる奴なんてスネージナヤにはきっと数えるほどしかいないような、「雨」って文化に疎い国民性は俺についても例外じゃなかった。ついでに他の「疎いもの」の話をしようか。璃月に来てから、正しくは先生と交流を持ってから俺は多くを彼に習った。それは箸の使い方だったり、水墨画の見方だったり、鼈甲の目利きの方法だったり、その中のひとつに縦書きの本の読み方がある。──稲妻か璃月の出身なら何にも思わないだろうけど、結構慣れないんだぞ、あれ。
そういう手習いを経て今と似たような関係に落ち着いた、…まで飛ばす。細々としたことを思い返すのは恥ずかしいから。先生は雨が好きだった。雨の気配があれば窓を覗いて、降っていたらソファの位置を動かして雨の音を聞きながら過ごした。一連の騒動の後は先生に悪評が立つと困るだろうから雨の日に訪ねることにしていた。部屋の窓辺で、人気のない夜中の璃月港で俺は雨を知った。労わるように静かな雨があること、ご機嫌に傘から跳ね返る雨があること、それから先生の言う雨のにおい。当然だけどいつまでも璃月にいられるわけじゃない。次の赴任地の稲妻は驟雨が多くてね、その度に彼と過ごす雨の日を懐かしんでいた。前に書いた通り私雨を知ったのもこの時で、実はこの時にもう一つ言葉を知ったんだ。言葉ってよりは詩、の方が正しいのかな。「 」。
これを目にして初めてわかったんだ。先生が雨を愛おしむ理由と、どうして俺が先生に雨を重ねるのか。先生と雨を結びつけると同時に、彼の声で紡がれる物語をずっと欲していた。先生はあの日俺の手の中にうっかり落ちてきて、それからずっと不思議な男の傘よろしく雨と言葉を俺だけに降らせている。恋人をもの扱いするのが正しくない行いなのはいくらファデュイでも知っているけど、これからも俺の雨、俺の一番大事な縦書きの本でいてほしい。先生の余生を贈ってくれてありがとう。
※
俺の恋人(男性・葬儀屋の客卿・6000代)はそっちの方が好みらしいから、以降未熟な独占欲については隠さない方針を取ることにする。