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376.【小説】愛と幻想のショートショート
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9 :零
2024/03/25(月) 17:56:34

【その手を離して】

 今から丁度五年前くらいのことだった。当時三年ほど付き合っていた彼女が、僕に「別れよう」と言ってきた。原因は多分、連絡の頻度が段々と減ってきたこととか、僕の部活が忙しくて全然会えてなかったこととかで、色んな要因が重なった結果、彼女は僕にそんなことを言ったんだと思う。
 それから、僕らは別れることにした。彼女はもう、僕のことなんか好きじゃなかったみたい。長いようで短かった冬が終わって、太陽が日に日にその存在感を増していた、三月のことだった。
 僕は彼女のことが大好きだった。ずっと一緒に居たかったし、将来的には結婚もしたいと思っていた。でも、彼女にその気持ちが上手く伝わっていなかったみたいで。
 別れた直後は後悔の連続だった。もっと好きって言えば良かった。部活を休んででも会えば良かった。もう一度やり直せるか、言ってみれば良かった。梅が咲く公園を歩きながら二人で別れ話をしてた時、彼女の手を離さなきゃ良かった。
 彼女と別れた帰り道、右から強い風が吹いた。台風程ではないけど、強く冷たい風だった。まるで、手を離した彼女が風に流されて、どこかへ消え去ってしまったような、そんな気分になって、涙が溢れた。でもその涙も、風は何も言わずに吹き飛ばした。
 それから二年が経った頃、闘病していた祖父が亡くなった。祖父が最後の面会の時、僕に一つ、言葉をくれた。「失うということは悪いことではない」と。
 冷たい祖父の手を離して病室を出ると、外は風が強く、少し肌寒かった。もう会えないかもしれないと思うと、怖くて辛かった。その不安が現実となったことを知ったのは、その二週間後だった。
 祖父は、何故失うことが悪いことではないのか、その理由までは教えてくれなかった。これ以来、僕は何かを失うということの本当の意味を探していた。
 かくして、祖父も恋人も僕の手を離れて、風に流されどこかへ行ってしまった。
 今、僕は仕事をしながら一人暮らしをしている。最近になって、失うということはどういうことなのか、少しずつ分かってきたような気がする。
 毎年この時期になると吹く風のことを「春一番」と呼ぶのだと、祖父は教えてくれた。
 今、あの時の彼女がどこにいるのかは分からない。誰かと結婚して、幸せな家庭を築いているのかもしれない。
 今、祖父がどうしているのかも分からない。案外、見えないだけで僕の隣を歩いているのかもしれないし。
 僕が誰かの手を離して泣き崩れた時、春一番は現れて、僕の大切な人も、僕の涙も全てを奪っていってしまう。でもその度に大事なことに気づいて、また歩き始められた。
 もし、僕が何も失わなかったら、どうだっただろう。手を離すことで分かったことが、分からないままだったかもしれない。
 今、一言で失うことの意味を答えるとしたら、僕はこう答えるだろう。「失うことは悪いことではない。失うことは気づくことだから」
 今年も春一番が吹いている。僕はその度に、失った大切な人のことを思い出して、前に進むんだと思う。
 手を離して、風が吹き去って、僕は生きてくんだろうと思う。
 天気予報で言っていた。もうすぐ風は止む、と。

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