捕物が終わり駆け足で自船に戻る。
煙草も吸わず、大人しくおれの部屋で過ごしていたあいつが俺の姿を見つけて目を細める。
卵と、ソーセージとベーコン。出る前に使いに頼まれていた物は早々に食糧庫にいれた。母親に褒められるのを待つガキのようにおれはあいつに近づきそれだけを伝えて、称揚の声を待った。けれど次いで聞こえたのは茶化すような応酬ではなく、少し呆れた、それでも慈愛に満ちた穏やかな声だった。
「その前に言うことがあるだろう」
暫く考えて漸く頭に浮かんだ言葉をおれは悠久の中のような一間できつく噛み締めた。
そう、「ただいま」の一言を伝えることが酷く難しかった。
言いたくないわけでも、そのあとの常句を聞きたくないわけでもない。……恐ろしかったんだ。見ないようにしていた。
好きだと伝え合う前、あいつは「おはよう」と「おやすみ」は絶対に言いたい。と息巻いていた。そんな姿を愛おしく思ったのも懐かしいが、事はそこではなく"毎日の約束"みたいなものをお互いに作ることにおれは尻込みしがちだ。
今だって寝る折の言葉に囚われているのはおれの方。
眠い眼を擦るあいつにおやすみを尋ねてしまう。
あいつが起臥の言葉を掛けるのだと自分自身にルールを設けるのとは随分と違う、おれの中の弱さの指針。
「ただいま」「おかえり」、確かにおれの帰る場所はあいつの元だしあいつに迎え入れられる幸せに代わるものなどないだろう。ただ、それが、日常になることが怖い。
いつか消える「おかえり」をおれは受け入れることが出来るだろうか。いつか消える「ただいま」をおれは、………許せるんだろうか。
そんなことが一瞬の間に頭の中を駆け巡った。
目の前に立つ体を抱き締めて、深呼吸をする。一度口にすればおれは求めてしまう。たった一言がこんなにもおれを縛っていたなんて改めて気づいてしまった。
本当に細く、……違う意味でガキのように見えただろう。
零した「ただいま」を、あいつは笑って受け取ってくれた。ポンコツだなァ、がんばった、えらい。と抱き締めながら。
あいつはおれが戸惑っていたことを感じて努めて優しくしてくれたんだろう。その優しさにいつも救われている。
じんわりと胸に広がる「おかえり」の声を忘れたくないと思った。
はじめてあいつをおれの船の、おれの部屋で抱いた。
もともと海のうえであいつをモノにした日には連れ出してどこか遠くに囲ってしまう魂胆だったんだが……まだ海でやりたいことが尽きないうちは常に潮に揺れる狭い船の中であいつを愛してやるつもりだ。
別に初夜でもねェクセに朝目覚めた時のあいつはいつもより照れては、少しぶっきらぼうで。そんなところが可愛くて仕方がない。疲れて寝落ちまうまでは気を抜きまくりなくせに。意識がはっきりしちまうと照れが勝るのだろう。
やだやだ、だってが止まらずにガーガーと可愛く喚く。
おれの腕の中にいる時は外聞もなくあまく鳴いていると言うのに、いざなにが恥ずかしいのか分からないが、あいつが照れて顔を隠してる姿がアホで可愛いからもう少しは抱かれることに慣れないで欲しいもんだ。
寝床で、あいつの甘い声を聞きながらこれからの未来を見て肌を合わせる。穏やかな幸せを噛み締めては言葉を交わしている最中、ふと気になったことをあいつに尋ねた。「おれを好きになってよかったか?」と。他意なんてものはなく、あいつの口から好きになってよかった。と聞ければ穏やかに眠れる気がしただけだった。
そうするとおれの予想に反しんてあいつはおもしろくない顔をする。「過去形みたいに言うのイヤだ」だと。
ああ、おれはいつもそうだなァ。言葉選びが格段に上手くないうえに自分の自尊心を保つ為に無意識に自分を卑下する。そうすることで相手も共に落としていることに気づいていない。
今回だっておれがおれである為に、愛されてるという言葉を直接聞けずに、試すように尋ねた。それがナイフの刃先を向けて渡しているという自覚もなく。
だから、あいつがそれをダメなことだとちゃんと教えてくれることが救いだと痛切に感じる。刃はヒトに向けてはいけないんだって。見捨てないでそれはダメなことなんだと教えてくれる。あいつの優しさに甘んじすぎてはいけないと思うし、おれの気持ちが伝わっている内に卑下するクセを治したい。いつか取り返しがつかなくなる前に。
染み付いた悪癖だが、あいつのそばでなら。そう願ってもいいだろうか。
2023-09-27 追記
ヒトの性質ってのはそう簡単なもんじゃなくて。
昨日も「言葉をひとりにするな」と言われた。気をつけているはずなのに、なんの進歩もねェ。情けないし、不甲斐なくて堪らない。
あいつとおれと、ふたりで歩んでるはずなのに。
ごめん。…と、根気強く諭してくれてありがとうをお前に。