記念日とかって2人だけのもん、とか特別なもの、って印象が俺の中にはあって、そこに勝手に口出していいもんかって悩んだけどめでたいコトなんだしよくね? っていう単純明快さに落ち着いた。てコトでブルーデイジーの2人は記念日おめでと、確保時間も理由も勝手ながら幸せのお裾分け貰った。これからも末永くお幸せにー。
めちゃくちゃわかる……ってまた共感。マジで絶対ないってわかってるけど理想ってものを体感してみたいよな。因みに、俺の最長は3年半だったなー……懐かし。
やっぱ欲張り過ぎてもよくねーかなー、まだ目が慣れてないだけか? でもごちゃっとしてんだよなー、ってもだもだしながら悪足掻きに小ぶりの花に変えてみたらそれなりにしっくりきた。よしよし、これくらいの喧しさならいいだろ。
ここ数年で変わったように思うのは、恋しくて寂しさを覚えることがめっきりなくなったトコ。寂しさを感じるコトがあるのは、暇でどうしようもないとき。
最近になって、そう言えば〝好きだから〟とか〝コイツだから〟恋しい、寂しい、と思うようなコトがあんまりないかもしれない、とふと思い返したらさ。俺って随分と薄情なのかもしれないなんて笑えた。
〝暇だから寂しい〟は最早寂しいとはまた別もんなんじゃないかと思って調べたぐらいだからな。で、その折に愛とはなにか問われた時の回答で「時間を割くこと」だって答えた人の言葉を挙げて、暇な時に寂しさを覚えるコトはあながち真理なのかもしれない的なものを見つけた。他にも暇な時とか夜中に寂しさを感じやすいみたいなものも多かったけど、夜中は思考が悪い方にいきやすいみたいなのはよく聞くしそういうものは往々にしてあるってのも知ってるから、そこは置いておいて。
その時間を割くコト理論には結構共感したんだよな。俺の為に時間を割いてもらうコトがありがたいと思うし、その理由が俺と居たいからとか俺と過ごす時間が楽しいからって感じだとありがたさにプラスして嬉しいと思うもんじゃん。それと同じで、俺が自発的に、能動的に誰かに対して時間を割く時はその〝誰か〟の為だけのものだ。
それが友達家族恋人と的を絞らなくても広義の意味で愛情だと捉えるなら、俺の中でも時間を割くコトは愛のひとつの形だと言える。
それに、薄情かもなーなんて思いながらも後ろめたさを感じてるわけではなかったけど、暇で寂しさを覚えるのはおかしいコトではないって思えたのは少し安心した。恋に恋するコトがなくなったのを成長だと思うのか希望を持たなくなったと捉えるのかは……まあ今は考えなくていいとして。
恋だとか愛情ってものを育てるコトに没頭したり、陶然としたり、盲目的になったり、さ。好きだって感情のままに考えて動くようなあの熱も、ちゃんと知ってる。そういう熱が巡った時に、俺はまた〝恋しいから寂しい〟っていう感覚になれるのかどうか、まで考えて……考えんのがめんどーになって寝たのがつい最近の話。