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283.短編小説のコーナー
 ┗184

184 :ラピス
2023/09/05(火) 22:19:37

私もベリーさんと同じ企画参加したので、その時のss失礼しますわ。


【52ヘルツの怪物】

 真昼の海は青。夜中の海は黒だ。まるで絵の具で一筆、塗りつぶしたような単色。
 青はまだ透き通るが、黒は吸い込む。正に今、一人の女を飲み込もうと、怪物のような黒が大口を開けているのだから。

「何をしている、止めなさい」

 星月夜の明かりだけが頼りの白い砂浜。女は何も聞こえないふりをして、黒の波に足を沈めていった。途端、全ての温度を奪い取ろうと水温が絡みつく。足指の隙間を水流に浚われた砂が逃げていった。
 ただの人間でしかないその身体が、海水に溶けて泡となることはない。分かっていても、少しだけ期待した。“あんなふう”に儚く消えてしまえたら、誰かが同情してくれたかもしれないから。

 波を掻き分けて進むたび、黒い水が衣服にまとわりつき、彼女を引きずり込もうと指を這わせてくる。海は冷たかったが、陸よりもずっと女を歓迎しているふうであった。

 沈む。水温に四肢が痺れていく感覚。腹や背中を撫でる寒気に思わず身が竦む。少しだけ立ち止まって、でもそれがいけなかったのだろうか。いつの間にか追いついた男が、女の腕を掴んで、陸へと引き寄せた。女は無抵抗だった。というよりは何もかも諦め、海月のように水を漂った、という方が近かったかも知れない。
 身を任せた結果が、波打ち際の砂に転がることだった。濡れた肌に張り付くジャリとした感触と、夜風の温さに押し付けがましい生を感じる。

「……涙の味がする」

 彼女の第一声は、助けて下さってありがとうございますなどでは無かった。
 別に女は泣いてなどいなかった。ただ暗い緑色の瞳を虚空に漂わせているばかり。黒い水平線を名残惜しそうに見ているようで、ただその辺の白い砂の粒を眺めてるふうでもあった。

「海水の味だろう。口に入ったんだ」
「つまらない答えですわね、アンデルセン。貴方、作家のくせに案外退屈なこと言うのね。安心しましたわ」
「作家も一人の人間だからね。君も作家のくせに入水か。退屈な死に方じゃないか。君も同じだ、作家なんて物語から離れればつまらない人間なのだよ」

 アンデルセンと呼ばれた男は、言いながら濡れて張り付くシャツを捻った。染み出した雫が砂浜に点々と染みを作る。女はそれを見て、でも同じように海水で重たくへばりつく服をどうするでもなかった。

「あなたの作品を読みましたわ」

 女が独り言みたいに口にする。アンデルセンは、そういえば先日新作を発表したばかりだったな、と彼女の次の言葉を待った。

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