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283.短編小説のコーナー
 ┗185

185 :ラピス
2023/09/05(火) 22:20:19

「読んで感じたのは、深い絶望でした。敵わないって思ったんです。あなたの描く海がきれいだった。同じくらい穢らわしかった。読まなければよかったって思うのに、私、こんな作品に出会えて幸せだと思う」

 滔々と語られる言葉に抑揚は無く、何処か夢でも見ているような、うつつとした口調だった。

「そうか。作者冥利に尽きる。熱烈なファンレターをありがとう」

 アンデルセンの声を聞くと、女は彷徨わせていた視線を彼の顔に縫い付ける。奈落の底から這い上がろうとする亡者のような、恐ろしい目をしていた。
 女は急に立ち上がり、震える声で捲し立てた。

「ファンレター? 笑わせないで下さる? これは呪詛ですわ。貴方の描く物語が憎くて憎くて仕方がないの! 同じ時代に生まれた作家として、これほどまでに人を恨まなければならないこと、こんな身を焦がすような、体の内側で火炙りにされるような気持ち、知りたくなかった!」

 女が言葉を切り、肩で息をするのを眺めて、アンデルセンは嗚呼、と短く声を零す。

「それで入水か。内なる炎は消えたかい」
「馬鹿言わないで。貴方が止めたから私、まだ陸にいるのでしょう? 貴方さえいなければ、きっと海の泡になって可哀想にって、誰もが同情するような最期を迎えられたのに」
「残念だが現実に泡沫と消えるお姫様なんていない。あのまま止めていなければ末路は水死体だ。君は死ぬまで塩辛い海水を飲み続け、醜く膨れた体で明日の朝、鯨のように浜辺に打ち上げられる。想像してみなさい」

 白い腹が、四肢が、顔が、塩水をたらふく飲み込んで、赤子のようにブクブクとくびれのない肉塊として、朝陽の差す波打ち際に転がっている。飛び出た目玉が黒黒として虚空を見る。その黒の上、蝿が手足を擦り合わせている。煩い羽音。絶えず寄せては返す波の音。わかめのように波に揺れる頭髪。アンデルセンは言葉で女の死骸を鮮明に描写して見せた。美しい架空の物語を描いた男が、今度はまざまざとグロテスクな現実を突きつけてくる。
 吐き気に顔を歪めた女を見て、アンデルセンはそのまま続けた。

「現実にファンタジーは起こらない。だから物語は、人に特有の光を与えるのだろう? そして、その光を与える者が作家だ。君も作家ならば、呪詛より物語を紡ぎ給えよ」

 女は大きく目を見開いて、深く、乾いた空気を吸い込んだ。そうして、痛々しげに息を吐く。次に紡ぐ声は、か細かった。

「ねえ、アンデルセン。打ちのめされるって、どんな気持ちか知っていて? 銀のナイフで心臓を抉られるような苦しみを知っていて? 王子様に声が届かないように、私ではどれだけ手を伸ばしても届かない。地獄は常に陸にあるのだわ。貴方の描くような海に、逃げたかったの。泡になれたらどんなに幸せだったかしら。この身を焼き尽くす苦痛を消したかったの。ねえ貴方、作家のくせに人の気持ちを想像できないのね。私、貴方のこと大嫌い……」

 二人は口を噤んだ。きっと、黙ったままでは痛みのある沈黙。波の音は静かにその傷を埋めてくれた。

「……私にはこの海、真っ黒な筆で塗り潰したようにしか見えない。でも貴方は、星月の煌めきが溶け込んで、パレットに乗せられた色以外の、ずっと鮮やかで、ずっと繊細で、いっとう美しい何色かに見えているのでしょう?」

 海は黒く蠢く。規則正しい音を繰り返しながら、星月の明かりを舐るように揺らしながら。ただ、黒くゆっくり鼓動しているようだった。女には、そういうふうにしか見えないのだ。

「さてな。しかし、俺にはこの海が黒には見えない。俺の見える景色が唯一無二だとして、お前の見る世界もまたお前だけのものだろう。誰一人として同じ色彩を見ることはないのだから、お前も作家なら、お前の思う色彩で筆を執れば良いだけではないのか」

 アンデルセンはあっけからんと言ってみせる。その姿が忌々しかった。

「簡単に、言わないで」

 女が唸るかのような声で口にすると、アンデルセンは興味を失ったふうに水平線を眺めた。

「そうかい。……ところで大変申し訳無い。君が作家であることは辛うじて覚えているが、名前は知らないな。どちら様で? 作家の集まりに顔を出していた気がするから、見覚えがあるのだがね。ほら君、特徴的な緑目をしているから」

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