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┗373.【小説】MOONLiT(5-24/64)

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5 :零
2024/03/14(木) 19:14:29

【#2 Warmth】

 あれからレイネはフィリオの家でしばらく休憩した。彼女はバターミルクを飲み終わった後も、相変わらずランプの灯りを眺めていた。フィリオはそんな彼女の姿を見て、海水でボサボサになっている彼女の髪がどうしても気になった。

「なぁレイネ、良かったら浴場行かないか? 体、結構汚れてるだろうし」

「おふろ?」

「お風呂も分かんないか……やっぱり記憶が無くなってるのか? まぁ、行ってみれば思い出すさ。よし、行こう。風呂に入ってしまえば疲れも取れるし」

 二人は街の西側に位置する浴場へ出かけた。レイネはフィリオのお古の茶色い革靴を履いて外へ出た。フィリオが持つランプが、家の花壇にある今にも綻びそうな薔薇を照らした。彼の家は閑静な住宅街の一角にある為、夜になると外は虫と蛙の鳴き声だけが響き渡る。さっきキャンパスやら画材やらを抱えていた彼の右手は今、レイネの手と繋がっている。

「て……あったかい……」

 レイネが呟く。

「君の手が冷たいんだよ」

 しばらく二人が歩いていると、大きな木組みの建物が見えてきた。浴場だ。浴場の建物の大きな四角い磨りガラスの窓から光が漏れ、中から何やら楽しげな人の声が聞こえてくる。レイネが突然、フィリオの手を強く握った。フィリオが彼女の方に目をやると、彼女は怯えているようだった。

「……」

「人の多いところは苦手か? 大丈夫。僕がついてるからな」

 フィリオはそう言って、レイネの手を優しく握り返した。
 二人は浴場に着いた。ここは古くから街の人々が身支度を整える場となっている。風呂場は混浴で、木桶の風呂が向かい合わせに何個もならんでいる。フィリオは服を脱衣所で脱いで、レイネを待った。レイネはゆっくりと服を脱いで、またフィリオの手を握った。

「さ、入るよ。最初は熱いと思うけど、だんだん慣れていくからね」

「……ん」

 二人は木桶の風呂にそれぞれ入った。浴場は夜にも関わらずたくさんの人で賑わっていた。

「どう? あったかいだろ」

「これも……あったかい」

 二人は向かい合って言った。レイネはお湯の中から手を出して、指先から滴る水を見ていた。フィリオはそんな彼女の姿を目に焼き付けた。彼はこのレイネを警吏の元へ届けなければならないことは分かっていた。彼女にもきっと、いや確実に家族がいて、今も彼女の帰りを待っているはずだ。

「レイネ……君はどこから来たの?」

「……」

「分かんないか。じゃあ、自分が今何歳か分かる?」

「……」

「お父さんとお母さんの名前は覚えてる?」

「……」

「今夜が満月だって事、何で知ってたの?」

「……」

「何も覚えてない……か」

 やがて風呂から上がって浴場から出た二人は、手を繋いで帰路に着いた。レイネが本当に夢の中の少女かは分からないが、それでもフィリオにはこの出会いがとても運命的で幸せな出来事だと思えた。彼はもう、レイネと別れる覚悟が出来ていた。
 レイネとフィリオは一つのベットで寝ることになった。この家には一人しか住んでいないので当然のことである。

「それじゃ、おやすみ」

「……おや……すみ?」

「そう。夜寝る時の挨拶……って、君は逆に何なら覚えてるんだ……」

 フィリオがそう言う前にレイネはもう寝てしまっていた。彼は彼女の頭をそっと撫でた。

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6 :零
2024/03/14(木) 19:14:45

 次の日、心地よい春の陽気と小鳥達の歯切れのいい鳴き声で二人は目覚めた。

「……ん……おはよう。レイネ」

「おは……よう?」

「……うん、朝の挨拶。おはよう」

「おは……よう」

 レイネはたどたどしく挨拶した。フィリオと出会ってから最初の挨拶だ。フィリオは今日、レイネを警吏の元へ預けることにしている。今日が別れの日だ。フィリオが朝食の準備をしに寝室のドアを開け、台所へ向かった。これが二人で食べる最初で最後の食事になるだろうと思うと、彼は途端、悲しみに襲われるのだった。別れる覚悟はできていたはずなのに。

「レイネ、おいで、ご飯食べよ。ペント、お前はこの林檎が今日の朝飯だ」

 食事の支度ができたフィリオは、居間の窓辺にあるペントに一切れの林檎をやってレイネを呼んだ。しばらくするとレイネが目をこすりながら居間に出てきた。

「これ、今日の朝ごはん。あ、ちょっとだけ待ってて」

 テーブルに朝食のパンとバターミルクを二人分置いた後、フィリオは一階のアトリエに向かった。レイネと一緒に朝食を食べるには椅子が足りなかったからだ。彼が絵を描く時にいつも使っている丸椅子をテーブルの側に置いて、彼はそれに座った。そして二人は一緒に朝食を食べ始めた。ペントは二人が朝食を食べ始める前にはもう林檎を丸呑みしてしまっていた。

「おいしい?このパン、僕の幼馴染が作ってんだ」

「うん、おいしい」

 そう言ってレイネは両手でパンを持ったまま、小さく微笑んだ。レイネがフィリオに見せる初めての笑顔だった。フィリオは二人を包むこの温もりを噛み締めるように、彼女に微笑み返した。

「レイネ、ちょっと頼みがあってさ、今から出かけるんだけど、ついてきてくれるかな?」

「……うん」

 そうして二人は家を出た。向かう先はルーンプレナ警吏の駐在所。フィリオの家から二十分ほど東に歩いた先にある。灰色の塔のような外観が特徴だ。

「すいませーん」

 フィリオが大きな木の扉を叩いて言った。

「ん? 何か用か?」

 扉を開けて出てきたのは、フィリオより二回りほど背の高い男だった。彼が被っているやけに派手な帽子はこちらを威圧しているように見える。

「え、えっと、この子なんですけど、身元が分からなくて、そちらの方で保護していただきたいんですが……」

 フィリオは少し緊張気味に言って、レイネの方を向いた。一瞬この場に沈黙が流れる。するとため息をついた警吏の男は言った。

「事情はよく知らんが、生憎俺達はそんな小娘を引き取ってるほど暇じゃないんだ。とっとと帰ってくれ」

「そ、そんな……! この子にも家族がいて、帰りを待ってるはずです! どうか、この子をお願いします」

「お前、家族はいるか?」

「一人暮らしです」

「じゃあ、家族が見つかるまで、お前が養ってやったらどうだ? その小娘、お前に結構懐いてるみたいだしな」

 警吏の男はそう言って下品に笑った。フィリオはそれを聞いてレイネの方をもう一度見ると、彼女は彼の右腕にしがみついていた。

「はぁ……分かりました。そうすることにします。それじゃ、失礼しました……」

 フィリオはそう言って、二人は警吏の駐在所を後にした。

「警吏って信用ならないんだな……ま、これも運命か」

 フィリオは警吏の態度と対応に落胆しつつも、内心ほっとしている自分に気づいた。

「僕はやっぱり、レイネと一緒にいたかったのかもしれないな……」

 かくして、レイネはフィリオと共に暮らすこととなった。二人は手を繋いで、賑やかなルーンプレナの街をゆっくりと歩いていた。

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7 :零
2024/03/14(木) 19:28:38

【#3 Orange】

「今日もルーンプレナは平和、だな」

 フィリオが言う。
 ルーンプレナはフィリオの生まれ育った街で、四季のはっきりとした気候が特徴だ。彼はこの街の唯一の画家として、それなりに名の知れた人物となっている。
 警吏の駐在所から帰る途中、二人が海辺の石レンガの道を歩いていると、前から背中に矢筒を担ぎ、茶色の髭を蓄えた大男がフィリオに話しかけてきた。

「おお! これはフィリオじゃないか! だいぶ久しぶりだな」

 男は二人の前で立ち止まって言った。

「タウルさん! お久しぶりです」

 タウルはフィリオよりも十歳年上で、この街に住みながら狩人をしている。約一年前にフィリオが絵を売っているところを見つけ、フィリオの絵に惚れて話しかけたのをきっかけに仲良くなり、それから男は度々フィリオに会いに行くようになった。

「いや、最近は俺も仕事が忙しくて、なかなか会えなくてな。どうだ、調子は?」

「相変わらずって感じです」

「そうか。ま、健康ならそれでいい……おい、ちょっと待て、その子どうしたんだ?」

 男はレイネに目をやって驚いたように言った。彼女はじっと地面を見つめて、フィリオの手をしっかりと握っている。

「あぁ……この子は身元が分からなくて……警吏は預かってくれなかったんで、僕が代わりに家族を探してるんです」

「はぁ、それは大変だな。この子、名前は?」

「レイネって名前です。それ以外のことは、まだよく分からなくて……」

 フィリオは小さくため息をついた。

「それは難しい事案だな。おし、俺もそのレイネってやつについて訊いて回ってみるな」

 タウルは顎に手を当てて言った。

「本当ですか! ありがとうございます!」

「おう、それじゃ俺はこれから仕事があるから、お互い、やるべき仕事を頑張ろうな。じゃ」

「はい!それじゃ、また」

 二人はお互い手を振って、タウルは急いで去っていった。彼が一歩一歩進む度に矢筒がガチャガチャと揺れる音がする。

「あのひと……だれ?」

レイネがフィリオの顔を見上げて尋ねた。
 
「あの人は僕の知り合いのタウルさん」

「こわいひと?」

「あー……確かに見た目は強面かも知れないけど、すっごく良い人だよ」

「……」

 レイネは突然黙り込んだ。そして彼女は何かを思い出したように突然苦しそうな顔をした。

「どうした、レイネ? 具合でも悪いか?」

 フィリオは腰を少し曲げて、レイネの目線に合わせて言った。

「……だいじょうぶ」

 フィリオの顔を見たレイネは、安心したようにほっと息をついて呟いた。

 レイネはどうやら人を異常に怖がるようだ。

「そんなに人を怖がるなよ。少なくともこの街の人はみんな優しいからさ」

 フィリオはレイネの頭をそっと撫でた。彼は少しずつではあるが、彼女との信頼関係を築いているように思えた。
 彼はわざと遠回りをして家に帰ることにした。彼はレイネと街を歩くこの時間が幸せだったからだ。

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8 :零
2024/03/14(木) 19:30:37

二人は商店街の前を通った。レイネは人混みも苦手らしく、フィリオの右腕にしがみついて離れない。

「ひと……たくさん」

 レイネが怯えながら言った。

「ここは商店街って言ってな、物を売り買いする場所なんだ。街の人達の交流の場にもなってるから、結構人がいるんだよね……こういう場所はやっぱり苦手だったか、ごめん」

 フィリオはすぐ商店街を離れようと速度を上げて歩こうとしたその時、彼女の声が彼を引き留めた。

「……あれ、なに?」

レイネは花屋の店先に凛と咲くカラフルな花の数々を指差した。どうやら人への恐怖心より未知への好奇心の方が勝った様だ。
 二人は商店街に寄ってみることにした。フィリオは一輪の赤い花を取って言う。それは今にも綻びそうなつぼみだった。

「これは花って言って、色んなところに色んな種類の花が咲いてる」

「もってるのは、なに?」

「これは、薔薇って言う花で、春に咲く花だ。うちの花壇にもあるやつだよ。今はまだつぼみだけど、咲いたらすっごく綺麗なんだ」

「……きれい?」

「見れば分かるさ」

「あれは?」

 レイネは今度、八百屋の方を指差した。二人は八百屋の前まで歩いていって、フィリオが言う。

「これは野菜って言って、こいつらは果物って言うんだ」

「やさい……? くだもの……?」

「うん、結構美味いぞ。なんか食べたいのとかあるか?」

 フィリオがそう言うと、レイネはゆっくりと橙色の果物を一つ手に取った。

「オレンジか……いいね。じゃあ僕とレイネの分で、二つ買おう。すいませーん! オレンジ二つください!」

「はいよ、これ紙袋。お代金3ナイルと20イールね」

 店主である老婆がこっちへやってきて言った。
 彼はポケットから半月の様な形の硬貨を五枚取り出して、店主の手のひらに出した。ルーンプレナ含むこの国では半円状の二種類の単位の硬貨が使われている。一つはイール。もう一つはナイル。100イールで1ナイルとなる。先人達がどのような意図でこの形状の硬貨を作ったのかは分かっていないらしい。

「毎度あり」

「よし、じゃ、お家帰って食べよっか」

 フィリオはオレンジがニつ入った紙袋を持って言った。
 よく晴れた日の昼下がり。だいぶ遠回りをして二人は家に帰って来た。さっき買って来たオレンジをテーブルに置いて、レイネは興味深く観察した。そして彼女は白く細長い手でそれをそっと掴み、大きく開けた口に入れようとした。

「あー、オレンジってのは皮は食べないもんだ。そのままは無理だ」

その姿を見たフィリオの指摘に驚いたレイネは、すぐに口を閉じて何事もなかったかのようにオレンジをテーブルに置き直した。
 
「今切ってやるから、ちょっと待ってな」

 フィリオは二つのオレンジを台所に持っていき、包丁でオレンジを切り始めた。包丁でオレンジを切る音に興味を持ったレイネは台所へ行った。

「レイネ、包丁は危ないから下がっててね」

 レイネはオレンジが綺麗に八等分をされるのをまじまじと見ていた。
 しばらくして、オレンジが二つ、切られた状態で一つの皿に乗せられた。フィリオが一切れのオレンジをペントの籠の中に入れると、ペントはすぐさまそれを皮ごと丸呑みしてしまった。

「えっと、まぁ、こいつは特殊だから。君は皮ごと食べなくていいからな」

 レイネはペントの食べっぷりを見て驚いたような顔をしたので、フィリオが真似しないように注意をした。

「さ、食べようか」

 フィリオは器用に皮を綺麗に剥いた。レイネはそれを真似るように両手でしっかりとオレンジを持ち、皮を剥いて口へ運んだ。

「……おいしい」

 レイネは頬に手を当てながらオレンジをゆっくりと咀嚼した。

「そうか。良かった」

フィリオはそう言って、レイネの頭を優しく撫でた。彼女のさらさらとした長い髪が、彼の手にそっと触れた。

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9 :零
2024/03/14(木) 19:33:05

【#4 Bread】

 あれから一晩の時間が流れ、新たな朝がルーンプレナにも訪れた。

「ん……レイネ……」

 フィリオはむくりと起き、レイネが彼の腕に抱きつきながらまだすやすや寝ているのに気が付いた。彼はそっと微笑んで、また彼女の頭を撫でるのだった。

「……ん……」

 レイネがそっと目を開けた。穢れのない瞳が陽の光を反射して輝いている。

「おはよう、レイネ」

「……おはよう」

レイネは小さく挨拶した。彼女が起き上がると、フィリオは彼女の長く繊細な髪が激しく乱れてしまっていることに目に付いた。

「レイネ、今日は寝癖が酷いな。そのまま外に出るわけにはいかないから、ちょっと椅子に座って待ってて」

フィリオはそういうと、寝室の棚から置き鏡を取り出した。木でできたそれは、どこか素朴な雰囲気を感じさせる。レイネはその小さく細い足で居間へと歩いていった。

「お待たせ、今髪梳かしてやるからじっとしててな」

 しばらくしてフィリオがレイネの元へ来て言った。彼はテーブルに鏡を置いて、水で濡らした手でレイネの髪を手櫛で器用に、なぞるように梳かしていく。

「よし、と。どうかな? 綺麗になったでしょ」

「……うん」

 レイネは小さくうなづく。

「でも髪型をもっと可愛くしたいな……あ、そうだ、あいつに昔教えてもらった髪型、作ってみるか」

 そう言ってフィリオはレイネの長い髪を編み込み始めた。これまで統率の取れていなかった髪達が、フィリオの手によってみるみる纏まっていく。彼女はその間ずっと鏡の中の少女を眺めていた。

「なかなか良いんじゃない? 僕にしては上出来だ。レイネ、鏡で見てみてよ。どうかな?」

 フィリオはそう言って優しく笑う。レイネは鏡をまるで初めて見たかのように自分の顔を上下左右に動かして、彼女の動きに完全にシンクロしている鏡の中の少女を見て、驚いたような顔をした。それから彼女はそっと手を鏡に向かって押し当てた。鏡の中の少女も同じ動きをする。彼女はようやく鏡の中の少女が自分だということに学び、閃いたような顔をした。フィリオはそんな彼女の姿を微笑ましく見ていた。するとレイネは鏡を見て自分の髪型の変化に気付いた。

「……これ、なに?」

「そう、君のために作った髪型。似合ってるよ」

「……にあってる?」

「綺麗って事だよ」

 フィリオの言葉にレイネは少し照れたように顔を下に向けた。彼女がそんな表情を見せたのは、二人が出会ってから初めての事だった。
 その後二人は、まるで昨日を繰り返すように朝食を済ませた。ペントはまだ食べ足りないと口を開けて訴える。

「もうお前の分の飯はないよ」

 フィリオは窓辺にある籠の中のペントに言う。それから彼は、椅子に体育座りになって小さく座っているレイネにこう言った。

「ちょっといいか、レイネ。話がある」

「……はなし?」

「僕は君の事がもっと知りたい。一応僕は、勝手に君を保護させてもらってる。少しでも早く君の本当の居場所に返す責任がある訳だ。話せることだけでいい。少しずつでいい。君のこと、何でも聞かせてくれ」

「……」

「ごめん、一気に喋りすぎたな。まぁ要するに、君自身について覚えてること、思い出したことがあったら、僕に教えてくれってことだ」

「……」

 フィリオはとにかく彼女の事が心配でしょうがなかった。あの日、満月の夜に出会った謎の少女、レイネ。彼の夢に出てきた少女はレイネなのか。彼女は一体何者なのか。今の彼が具体的な行動ですぐに解決出来るような問題ではなかった。

「そうだ、一つ言っておこう。君が何者か。それが分かるまでは……レイネ。君は僕らの家族だ」

 それから二人は、散歩ついでにパン屋へ出かける事にした。

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10 :零
2024/03/14(木) 19:33:25

「今日も丁度いい気温でいいね。レイネ」

 フィリオが歩きながら頭の後ろに両手を当てて言った。彼は大好きなルーンプレナの街を散歩する事を毎日の日課としている。春の暖かい風が二人の肌をそっと撫でる。
 しばらく歩いて、二人はパン屋に到着した。このパン屋にフィリオはいつもパンを買いに来ていて、彼の幼馴染が店主をやっている。

「さ、ここが僕の幼馴染がやってるパン屋だ。食いたいものあったら遠慮なく言ってな」

 フィリオが店のドアを開けると、ドアベルの音が鳴るのと同時に、店のカウンターに佇むフィリオと同じ年齢程の娘が言う。

「お!フィリオじゃーん……って、その子誰?あんた妹いたっけ?」

「あぁ、この子はレイネって言って……浜辺で倒れてたのを、僕が保護した」

「あーそう……って! 倒れてたって何よ? 意味わかんないんですけど!?」

娘は驚きのあまり店のカウンターを両手でドンと勢いよく叩いて身を乗り出した。

「あ……まぁ落ち着け。こいつはどういう訳か自分の名前以外の記憶がなくて、感情にも乏しくてな……元の家族に返してやるのは結構時間かかりそうなんだ」

「あー、急展開過ぎて直ぐには飲み込めないわ……まぁともかく、レイネちゃん、だっけ? よろしくねー!」

 娘は考え込む様にして額に手をやったが、直ぐ顔を上げて、フィリオの手を強く握るレイネに向かってとびきりの笑顔を送った。
 異常なまでの明るさ。それが彼女の長所だ。

「レイネ。このやたら明るい女はルミンって名前だ。あんまり近づくと喋り出して止まらないうるさい奴だ」

「はぁー? その言い方は流石に許容出来ないわね……」

「すまんすまん、軽い冗談だよルミンさん……レイネはうるさいところが苦手でな……」

「あーそう。って、それじゃ私がうるさい奴ってのは本音だったワケ!? 信じらんない……もう……ま、いいや。そんじゃあ、注文どうぞー。って、フィリオだからいつものに決まってるか」

 彼女はそんな事を一人でベラベラ喋りながら、長い茶色の髪を揺らして店の奥のオーブンへと向かった。
 異常なまでの切り替えの早さ。それが彼女のもう一つの長所だ。

「レイネ、ルミンはこんな奴だけど、作るパンは世界一だと俺は思ってる。家で食べてたあのパン、美味かったろ?あれだってみんな、あいつが作ったんだからな」

 フィリオは何処か誇らしげにそう言った。
 しばらくしてルミンがオーブンからバスケットいっぱいのパンを抱えてカウンターに戻ってきた。

「さー! 焼きたてほやほやルミン特製ウルトラスーパーミラクルスペシャルパンだよー!」

「言い過ぎだ」

 フィリオが突っ込む。

「あー。ほんっとフィリオって冷たいよね……」

 ルミンが寂しそうに言う。

「はいはい。じゃ、そろそろ帰ろうか」

 フィリオがそう言ってレイネの手を握ったその時だった。

「……ちょっと……まって……」

「ん?」

「……おいしいパン……ありがとう」
 
レイネがルミンに突然言い放ったその言葉に、二人は驚いて彼女の方を向いた。

「ほら! レイネちゃんは私のパンの良さを分かってるんだよ……うんうん……」

 ルミンは染み染みとうなづく。

「ルミン、実は……僕もお前のパンは世界一だと思ってる。いつもありがとな」

 フィリオがレイネに続いて鼻を擦りながら言った。

「な、何よ急に……! さっきまでツンツンしてた癖に……」

 ルミンは目を逸らして、頬を少し赤らめた。

「……また……たべたい」

 レイネはそう言って、ルミンの顔を見て微笑んだ。

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11 :零
2024/03/14(木) 19:43:36

【#5 Green】

 今日もルーンプレナに日が昇る。フィリオとレイネが満月の夜に出会ってから三度目の事だった。

「レイネ、今日はいい天気だから、ちょっと遠くに出かけようと思う」

 フィリオはそんな事を言っているが、彼はどんな天気でも一日一回は外へ散歩に行き、街の空気を吸わないと気が済まないのだ。まるでそうでもしないと死んでしまうかの様に彼はそのルーティンを欠かさない。そしていつも、雨や雪が降っている時以外は、キャンバスやイーゼル、画材やらを持って出かける。常に絵の題材を探し求めているのだ。
 彼が行なっている散歩という日課は、彼自身の絵描きとしてのこだわりであり、ノルマなのである。

「……どこいくの?」

「んー、内緒。でも、とっても素敵な場所」

 二人はそう言いながら街に出た。フィリオはいつもの画材やらを抱えている。

「それ……もつ」

「レイネ? 持ってくれるのか? ありがとう。まさか君がね……」

 レイネは初めて自分から進んで誰かを手伝った。フィリオはそんな彼女の姿を見て、はにかんで笑った。
 相変わらず街の中心部は賑やかで、おば様方の井戸端会議や吟遊詩人の歌声、子供達が笑いながら駆ける音なんかが、そこかしこから聞こえてくる。そんな賑やかな雰囲気も、二人が歩みを進めていく内に段々と消えていく。
 いつの間にか辺りは閑散とした空気に包まれていた。

「……ここ、どこ?」

 レイネがフィリオの服の裾を引っ張って訴える。

「ここは街の外れの方だ。この先をもっと奥に行ったところに目的の場所がある。僕のとっておきの、秘密の場所だ。今日はそこで絵を描くつもり。いつもは気まぐれだけど、今日は特別」

 フィリオはそう言ってにこやかにレイネに笑いかけた。
 さらに二人が歩いていくと、辺りはすっかり鬱蒼とした森の中になった。地面は舗装されていない土の道で、両脇に道を覆う様に生えた木々の葉が大空を隠し、天然のトンネルを作り出している。

「あれ、なに?」

 レイネが上を見上げて、木の上で小さく動く何かを見つけた。

「あれは鳥。ちゃんと見ると結構可愛いぞ? そんで、今ちょうどあの鳥が木の枝を咥えてるだろ? この頃あいつらはせっせと巣を作る時期なのさ」

 フィリオが頭上の鳥を指差して言うと、その鳥は目線に気が付いたのか、どこかへ飛び去って行ってしまった。

「す?」

「そう。僕らで言う家みたいなもんだ」

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12 :零
2024/03/14(木) 19:43:47

二人はやがて小さな池のある場所にたどり着いた。土の道はこの池を終点に途切れている。フィリオとレイネは歩みを止めてその池を見ていた。池は葉の間から溢れる陽の光を反射して、水晶の様に煌めいている。深緑の葉が木から悠然と水面に落ちて、超然と浮く。遠くで小鳥たちの鳴き声が聞こえた。すると二匹の青い小鳥が木の隙間を器用に潜り抜けながら、互いを追いかけているのが見えた。

「……きれい」

 レイネは池の方へ歩き出し、水の前まで来てゆっくりと手を入れた。

「つめたい」

「そりゃそうだ。池の水だからな。お風呂とは違うんだよ」

 フィリオがイーゼルを置きながら言った。

「レイネ、こっちおいでよ。今から絵、描くからさ」

フィリオは自慢げに言った。
 
「……え」

「そう。見てるだけでいいからさ」

 フィリオは手のひら程の大きさのキャンバスをイーゼルに乗せて、大きな左ポケットから筆を取り出す。彼は明るいグレーの絵の具で下地を作った。
 それから彼は舌を少し出して、その筆を立てて持ち、片目を閉じて突き出した。
 レイネは池から離れて、目を輝かせてフィリオの手に注目した。

「んー……いい感じ」

 絵の構図が概ね決まったフィリオは、薄い茶色の絵の具を使ってデッサンを始めた。

「レイネ、絵は積み重ねが肝心だ。何度も何度も、上から新しい色、新しい形を描いていく。人の歴史と同じことだよ」

「……ん……?」

「あ、ちょっと哲学的過ぎたかな」

 そう言ってフィリオは続けて言った。

「どうせ忘れてるだろうから説明しておくけど、この世界は昔の人達の積み重ねで出来ている。文字を使い、火を扱い、時には争いをし、時には愛し合った。絵はいつかは完成するものだけど、歴史ってものは完成が無い。でも絵と歴史は似ているもんで、積み重ねでもあり、塗り替えでもある。だから、僕らもいつかは誰かに塗り替えられるのさ。儚いもんだよ」

 デッサンをしながらフィリオが語る。

「……れきし」

「そう。レイネ、君も歴史だ。そして僕も。みんな歴史という絵の一部なのさ」

「おなじ……?」

「そ、どんな個性も、塗り替えられてしまえば、みんな同じさ。どうせみんな忘れっぽいからな。後は、めぐりあいだよ」

「めぐりあい?」

「うん。僕と君がこうして出会えたのもね」

「そう……なら、うれしい」

 彼はデッサンを終えた。そして彼はパレットに絵の具を垂らし、混ぜ合わせながら絵に平筆で色をつけていった。木漏れ日が差す森と煌めく池に、命を吹き込む。生気の無かった絵の中の木々が、だんだんと活力に溢れた植物として描かれていく。絵の具の光沢がますます木々の生を実感させる。それからもペインティングナイフや丸筆で色が重ねられていった。まるで人類が歩んできた歴史の様に。

「よし、今日のところはこんなもんかな」

 彼は朝からこの絵を描き続けていたが、作業が終わった頃にはもう日は西の方にいた。

「……おわり?」

「いや、まだ終わりじゃないさ。この絵はこの後アトリエに持って行って、絵の全体の調子を整えるんだ。だから今日はこれで終わり」

「え、きれい」

「そ、そうか……ありがとうな……!」

 フィリオは彼女の恐ろしいほど純粋な心から放たれた褒め言葉に照れながら答えた。

「そ、それじゃ、そろそろ帰りますか」

 フィリオがそう言って用具一式を片付けようとしたその時だった。レイネの手に美しい羽を持った水色の蝶が止まった。蝶は池の水面の様に陽の光を反射して輝いている。

「これ、なに?」
 
「それは蝶」

「ちょう」

レイネが呟くと、蝶はひらひらと、どこかへ飛んで行った。

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13 :零
2024/03/14(木) 19:44:38

【#6 Blue】

 レイネはあれから一階のアトリエによく来るようになった。彼女にとっては絵という文化さえも鮮烈に感じられるのだろう。
 ある日彼女が二階から降りてきて、朝からずっと池の絵の仕上げをしているフィリオに尋ねた。

「え、いつできるの?」

レイネは答えた。
 
「んー……いつ出来上がるかは僕にも分からないや」

「わからない?」

「うん。絵は人みたいなもんで、描いて育てていくたびに表情が変わるんだ。でも、完璧な状態で作品を作りたい。そこはこだわっておきたいんだ」

 そう言ってる間も、フィリオは筆を止めなかった。彼の真剣な表情を見たレイネは、彼の邪魔をしてはいけないと思ったのか、ただ黙って彼の姿をじっと眺めていた。

「……」

 彼は黙々と絵を見つめ、苦しそうな表情を浮かべながら足を揺すった。

「……」

 フィリオの筆はずっと止まっている。

「……」

 彼は黙り込んだまま、左手をゆっくりと下ろした。

「どうしたの?」

 レイネが心配した様子で尋ねる。

「んー……やっぱ違うな」

 フィリオはそう言いながら筆を床に落とし、短い黒髪を掻いた。

「あー、こんな時は次だ次! 別の絵の題材探し!」

 フィリオはそう言って立ち上がった。彼が座っていた椅子が彼の足に当たって後ろにずれた。レイネはその音に驚いて目を丸くした。

「レイネ、こういう時は気分転換だ! 今からどっか行こう!」

「あ……うん」

 フィリオは絵の制作に行き詰まり悩んだ時にはすぐ散歩に出かける。思い切って気分転換する目論みだ。彼はさっきとは打って変わり、開き直って晴れやかな表情をして、池の絵の仕上げに使っていた筆達を水バケツに入れて洗った。それから彼は急いで洗い終わった筆をポケットに入れ、真っ白なキャンバスといつもの画材達を持ってレイネに言った。

「さぁレイネ、今から散歩行くけど、来るか?」

 フィリオは少し早い口調でそう言った。

「……わかった……いく」

 レイネは頷いた。
 二人が街に出ると、頭上には綺麗な青空が広がっていた。フィリオは空を見上げて深呼吸をした。空にはゆったりと白い雲が流れている。
 そして彼は歩き出した。

「ちょっとまって……」

 レイネはそう言ってフィリオを追いかけた。

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14 :零
2024/03/14(木) 19:45:04

 二人は街を歩いた。止まらずに歩き続けた。
 ここも違う。
 ここも違う。
 レイネはフィリオの後ろをずっと追いかけて、その細い脚を動かし続けていた。
 二人の息が荒くなってきた。疲れが見え始める。
 どうしたものだろうか。フィリオはなかなか良い題材が決まらないまま、レイネと共に街を一周して家の前まで来てしまった。

「つか……れた」

 レイネが地面にしゃがみ込んだ。

「……ごめんレイネ。僕ちょっと焦ってたみたいだ……焦っていても何もいい事はない。分かっていても、中々うまくいかないものだな」

 そう言ってフィリオはもう一度空を見上げて深呼吸する。風の音がどこからか聞こえてくる。

「そうか。空か」

 彼はふと、ある大切な人を思い出した。それは彼が十歳の頃に遡る。
 フィリオは両親を幼い頃に病気で亡くし、それから身寄りのない彼はジタンという男とその妻に引き取られた。フィリオは彼を「父さん」その妻を「母さん」と呼んだ。ジタンは油絵画家を生業としていた。「フィリオ、空を見てごらん。空ってのはいつも俺達を見守ってくれる。そして時間によって表情を多様に変える。自然が生み出した最高の芸術だよ」彼はいつもフィリオにそう言っていた。彼はジタンの描く絵が大好きだった。
 ある日フィリオは、街角で絵を描いているジタンに尋ねた。「どうしていつもこの街の絵を描くの?」と。彼は答えた。「この街が、この世界が好きだから」そう言う彼にフィリオはいつしか憧れを抱くようになり、それから彼はジタンに油絵を教わるようになった。
 しかし約一年後、ジタンは病気でこの世を去ってしまった。フィリオはそれでも悲しみを乗り越え、絵を描き続けた。彼もまたこの街を、この世界を愛していたからだ。

「そうだ。僕はこの世界が好きだったんだ。この頃ずっと絵に縛られて、大切な事を忘れてた。よし! 今日はこの青空を描こう」

 フィリオはそう言って笑顔を空に送り、荷物を置いて腕を目一杯上に伸ばした。

「今日は海も綺麗だな……そうだ、どっちも描いてやるか!」

 そしてフィリオとレイネの二人は海にやってきた。空と海。青く広がり続ける両者は、それぞれ違う青を映し出している。フィリオはそんな風景に惹かれてここへやってきた。レイネは疲れからか、大きく息を吐いてその場に座り込んだ。

「レイネ、今日は本当にごめん。結構無理させちゃったな」

 フィリオがそんなレイネの姿を見て謝る。

「うみ……」

 レイネが呟く。ここは二人が出会った、あの砂浜だ。

「そっか、ここは僕たちの出会いの浜辺か。最近の事なのに、もう随分と昔の事みたいだな……どこを聞いて回っても君についての情報は一個も出てこないし……しばらくはうちに居ることになるのかな」

 フィリオがイーゼルを立てながら言った。
 
「いっしょに……いたい」

「……」

 レイネの突然の発言にフィリオは言葉が出なかった。フィリオはキャンバスをイーゼルに置いて、空を眺めて言った。

「レイネ、出会いがあれば……いつかは別れが来る。みんなそうなんだ……だから、いつまでも一緒にはいられない」

 フィリオは悲壮な顔をして言った。

「わかれ?」

「離れ離れになるって事さ。別れは突然やってくる。だから今と言う時間を大切に生きていくのが大事なんだ」

 彼はそう言ってから、ポケットに入れた筆を取り出した。

「さ、描きますか」

 波の音だけが二人を包む。
 彼の描く線は、彼の愛した世界を映し出していった。

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15 :零
2024/03/14(木) 19:53:54

【#7 Red】

 フィリオがレイネと出会ってから一ヵ月の時が過ぎた。二人の家の花壇に植えられた赤い薔薇はもうすっかり咲いている。春から夏に少しずつ変わっていく季節の中で、それは謙虚に、それでいて凛としていた。

「レイネ、どう?」

 二人はしゃがんで、花壇の薔薇をひたすらにまじまじと見ていた。

「……きれい」

 レイネは薔薇の花をやたらと気に入っている様子だった。

「そっか、君は薔薇が好きなのか。それじゃ、今日はそれを描くよ。君が綺麗って言ってくれた、この薔薇をね」

 彼はそう言ってアトリエから道具一式を持ち出した。彼のポケットから、いくつもの筆が顔を覗かせている。

「さ、始めますか」

 フィリオは繊細なタッチの絵を得意としている。溶き油を多めに使用して、徐々に、そして丁寧に色を重ねていく。それが彼のスタイルだ。

「絵ってのは、言わばモチーフとの対話だ。それを描くことで、性格や表情なんかが見えてくる。自分が知らなかった心の扉が開かれる事だってあるかもしれない。奥が深いもんだよ」

「たいわ?」

「そう、絵のモチーフと会話するんだ」

「ばら……しゃべれるの?」

「んー、なんていうか、僕が思うに、この世界のありとあらゆる物には魂が宿っていると思うんだ。これは僕の魂と薔薇の魂との、魂の会話。口で喋る会話とはちょっと違う」

 こんな事を言いながら、彼は顔の大きさほどのキャンバスにどんどん下書きを描き進めていく。

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16 :零
2024/03/14(木) 19:54:13

暫くすると彼はモチーフに色を付け始めた。赤い絵の具をパレットに置いて、溶かしてからキャンバスに色を乗せていく。

「きれい」

 レイネが呟いた。それは薔薇そのものに対してではなく、フィリオの絵に対しての言葉だった。

「……ありがとう、レイネ」
 
 フィリオの育ての父ジタンは、ある時彼に言った。「絵は人の心を表すものだ」と。彼はその言葉を深く胸に刻んでいた。それ故に彼は、彼女の純粋な感想が妙に嬉しかったのだ。

「いろ、たくさん」
 
 レイネは彼が右手に持つパレットに注目した。
 
「絵の具ひとつとっても面白くてさ、油とか石とかを混ぜて作ってある。筆は鹿の毛が使われてる」

「……んー」

 レイネは分かった様な分からない様な、そんな顔をして、黙々と絵を描き続ける彼の姿を見ていた。
 彼はパレットナイフで油絵の具を混ぜ合わせ、色を作っている。

「いろ、まざる……」  

「興味あるか? レイネ。じゃあこれと、これを混ぜたら、どうなるでしょうか……?」

フィリオは赤と青の油絵の具をパレットに出した。

「ん……」

 レイネは膝を抱えて座りながら、彼のパレットに釘付けになっていた。

「ほら、紫になった。どうだ?面白いだろ?」

 フィリオは彼女に歯を見せて笑いかけると、彼女は二人が出会ってから一番の、とびきりの笑顔を彼に返した。

「……おもしろい」

 二人の間になんてことない会話が繰り広げられた。
 彼はこの時間が好きだった。なんてことない、この特別な時間が。

「レイネ、薔薇の匂いを嗅いでみな。いい匂いがするからさ」

「におい……」

 レイネは恐る恐る自分の鼻を薔薇に近づけた。

「どう?」

「いい、におい」

 レイネは薔薇の香りを感じて言った。その後も彼女は真紅の薔薇に見惚れていた。まるで薔薇の香りと言う名の魔法にかかってしまったかのように。
 それから三日後の朝のことだった。その日は、フィリオがアトリエで早朝から薔薇の絵の仕上げの作業をしていた。

「レイネ、おはよう」

 二階からレイネが階段を降りてくる音に気付いた彼が言った。

「そのえ……すき」

 レイネがフィリオが仕上げている絵を指差して呟く。

「そう、それは良かった」

 フィリオは誇らしげにそう言いながら、左手に持っていた丸筆をポケットに戻して、代わりにペインティングナイフを取り出した。
 やがて、初めは純白だったキャンバスに鮮やかな赤色の薔薇が浮かび上がった。
 無限に広がり、絶え間なく動くこの世界の中で、小さな街の小さな生命が、そこに切り取られた。それはこの薔薇にとって、確かにここに居たという生きた証でもあった。

「よし、と。あとは乾かすだけだ。レイネ、この絵は君にプレゼントするよ」

 フィリオは鼻を指で擦りながらそう言った。彼は元々その絵をいつものように売ろうと考えていた。だが、レイネの薔薇の絵に対する気持ちを感じ取った彼は、それを彼女に渡すのが一番良いと思ったのだ。ジタンはある時、絵を描いているフィリオに言った。「いつかお前が絵描きになって生活する時が来たら、時が来たら、自分の絵を何よりも愛してくれる人に売りなさい」と。

「これ、くれるの?」

「うん。好きって言ってくれたし、君にはその絵が似合ってると思うから」

「……うれしい、ありがとう」

 太陽の様な笑顔を見せるレイネ。それを見たフィリオは、自分が絵描きである事を誇りに思うのだった。

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17 :零
2024/03/14(木) 19:55:48

【#8 Creed】

「わたし、このまち……もっとしりたい……」

 ある朝レイネはそう言った。この一ヶ月、彼女は毎日の散歩の中で数えきれないほどの体験をした。建物や生き物、人との出会いの中で、彼女はもっとこのルーンプレナの街の事を知りたいと思うようになったらしい。

「ありがとう。この町に興味を持ってくれて。勿論、これからも色々案内して、知りたい事は何でも教えるよ。僕も、この街が大好きだから」

「うん、わたしもこのまちが……すき」

「良かった。あ、そうだ! 母さんに君を紹介するか。母さんだったら、僕以上にこの街の事よく知ってるし。レイネ、新しい出会いをしてみないか?」

「きになる」

 フィリオの提案にレイネは目を輝かせて言った。

「よし。そうと決まれば早速出発だ。まだ今日の散歩してないしな。『思い立ったらすぐ行動』ってね」

 かくして二人は街へ出た。

「母さんは育ての親なんだ。僕の実の母さんは、僕が産まれて直ぐに病気で死んだんだ。顔も覚えてない。実の父さんも、その後を追う様に亡くなったから、当時実の母さんの親友だったレオナって人が、身寄りのない僕を保護することになった。その人に今日会うって訳。ちょっとややこしいかな?」

 フィリオは歩きながらレイネに説明した。

「かあさん?」

「あぁ、自分を産んでくれた人の事だよ。僕の母さんの場合は……えと、うん、説明難しいな……」

「わたしにもいるの?」

 レイネは首を傾げる。

「きっといるさ」

「そう……」

 二人が出会ってから、フィリオはレイネに色々質問をした。故郷の事、家族の事。しかしどれほど聞き出しても、レイネは「わからない」「おぼえてない」「しらない」と言うので、結局何も情報は得られなかった。街で聞き込み調査もした。だがそれでも有力な情報を入手することは出来なかった。

「まぁ……そういやその点僕らは、似たもの同士って言えるかもな。でも大丈夫。きっと君の親は元気にしてるさ。確証は無いけどさ。今頃レイネの親は何してんのかな……なんの情報も得られないんじゃあ、今はどうする事もできないし。はぁ……」

 フィリオは悲しげな口調でそう言って、ため息を吐いた。

「……ごめん」

「君が謝る事ないよ。寧ろ謝るのはこっちの方だ。何も出来なくてごめんな、レイネ」

 そう言ってフィリオはレイネの頭を撫でた。
 ルーンプレナのとある街角。閑静な住宅街にひっそりと佇む酒場に二人はやって来た。フィリオの育ての親であるレオナという女性がこの酒場を一人で営んでいる。
 古びた木製のドアをフィリオが勢いよく開けると、木の軋む音が響いた。店内は沢山の人で賑わっており、店の壁には、数年前フィリオのルーンプレナの街並みを描いた油絵が飾られていた。

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18 :零
2024/03/14(木) 19:56:01

「ただいま、母さん!」

「あら、フィリオじゃない! 久しぶりね!」

レオナは褐色の手を振ってフィリオを歓迎した。その手が一往復する度、彼女の水色のピアスが小刻みに揺れる。

「丁度カウンター空いたから座って」

「ありがとう母さん」

 フィリオは言われた通りカウンターに座った。レイネはフィリオの膝の上だ。 

「最近来てくれないから心配だったわ。毎日だって来てくれて良いのよ? 絵描き生活の方は最近どう? ペンちゃんは元気?」

 レオナが質問攻めをする。

「あー、ごめんごめん。ちょっと忙しくってさ」

 ペンちゃんとはペントの事である。ペントは元々街に迷い込んで来た彼を彼女が保護したのがきっかけで、フィリオ達の家族となったのだ。

「そっか……! その子が噂のレイネちゃんね。話はタウルから聞いてるわ。それで忙しかったのね」

レオナはレイネの方を見て言った。

「そうそう。それなら話が早い。実は今日、レイネを母さんに会わせたくて来たんだ。レイネがこの街に興味を持ってくれたみたいで」

「あら、そうなの? それは嬉しい限りだわ。レイネちゃん、初めまして。私はレオナ。フィリオの育ての親にしてルーンプレナのご意見番……! よろしくね!」

 レオナが得意げに言う。

「よろ……しく」

 レイネは下を向いて小さく言った。彼女はまだ初めて会う人への恐怖心が拭えない様だ。

「なぁに、恥ずかしがる事ないのよ。フィリオとはもう十八年の付き合いだし、この街に至っては三十……あ、歳バレる」

 レオナは慌てて口をつぐんだ。

「ま、まぁ、この街には慣れてるから、困った事や知りたい事があったら何でも言ってちょうだい」

「わかった」

 レイネはそう言ってうなづいた。

「ねぇフィリオ、この子相当なシャイね」

 レオナがフィリオの方を向いて言う。

「まぁ、元居た所についての記憶もないし、怖がってるんだよ、きっと」

 フィリオはそう言いながら、またレイネの頭を撫でた。

「あとフィリオ、レイネちゃんを保護した時、何で私に相談しなかったの? 困った事があったらすぐに私に話してって、いつも言ってたでしょ」

 レオナが少し強い口調でフィリオに言った。
 
「母さん、いつの話? それ。僕がいつまでも子供だと思ったら大間違いだよ」

「そりゃ、あなたがもう子供じゃないってのは分かってますよ。でも心配しちゃうのが母の性ってもんなのよ」

 レオナは彼を見ながらそう言った。彼はそんな彼女の姿を見て安心した。彼女の瞳は全てを包み込む様な不思議な力が宿っている様に思えた。
 
「それにしてもフィリオ、私達、似てきたわね……」

「……どこら辺が?」

「世話焼きなとこ」

「世話焼きってそんな……僕はただ、困ってる人を助けたいって、ただそれだけで……」

「私もそう思って、あなたを育てたのよ。つまりは、そういうこと」

 『困ってる人がいたらすぐ助ける』レオナの信条であり、それはフィリオの信条でもあった。

「……あ!」

 突然レオナが何かに気付いた様に大声を出した。

「急にどうしたの、母さん」

「レイネちゃんって、しばらくこの街にいて、フィリオと暮らす感じ?」

「……あーまぁ、今の所はそうなりますけど」

「じゃあさ、今度ここで歓迎会しましょう! 私達家族に迎え入れる儀式……みたいな! どうかしら?」

「えっ! 迎え入れるって……まぁ確かに、一時的な家族、ではありますけど……レイネには本当の家族も居て……」

「いーのいーの!」

 レオナのあまりにも急な提案にフィリオは混乱したが、彼はその提案を飲んだ。

「まぁ、いいや……レイネ、どうする?」

「おもしろそう」

「よっしゃー! そうと決まれば早速、明日やっちゃおう! 『思い立ったらすぐ行動』!」

 小豆色の袖を捲って腕を勢いよく回す彼女を見て、フィリオはため息をもう一つ。

「はぁ……やっぱり僕達って似たもの同士、家族なんだな……」

 『思い立ったらすぐ行動』これはレオナの昔からの口癖である。そして、フィリオ達家族のもう一つの信条だった。

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19 :零
2024/03/14(木) 19:58:20

【#9 Present】

 太陽がルーンプレナを暖かく照らす。下弦の月がひっそりと青空に佇む。今日はレイネをフィリオ達家族に迎え入れる儀式、もとい歓迎会が行われる日だ。
 フィリオ達は歓迎会の準備をしていた。

「レイネ、支度は出来たか?」

「うん……できた……」

 レイネはあの時から変わらない、フィリオのお古の服を着て言った。

「いつもそんな服で悪いね……本当はワンピースとか着せてあげたいんだけど……」

「わんぴーすって、なに……?」

「君に似合いそうな可愛い服」

「かわいい……?」

 彼女は彼の言葉を聞いて、少し照れた様子だった。
 ペントは二人の会話の声で目を覚まし、シャーと鳴いた。

「おう、ペント。勿論お前も連れて行くぞ? 久しぶりに母さんに会えるよ」

 それを聞いてペントは再び鳴き声をあげる。

「お前は僕以上に母さんに懐いちゃってるもんな。さてと、出発するか」

 フィリオはペントのそんな態度に何処か寂しさを覚えつつ、ペントの住処、金属製の籠を持ってドアを開けた。レイネは彼の持つそれを一緒に持とうとして、両手を籠の底に伸ばした。出会った時はお互いに警戒していたペントとレイネだったが、どうやらこの一ヶ月で随分と打ち解けた様であった。
 かくして二人と一匹は、いつものルーンプレナの街を歩きながらレオナの酒場を目指すのだった。
 しばらく歩いて、酒場のドアの前まで来たフィリオが言う。

「さて、着いたな。今日は君が主役なんだから、遠慮しなくて良いんだぞ」

 フィリオがレイネの方を見て微笑んだ。レイネは少しおどおどしている様子だった。

「大丈夫。緊張しなくていいよ。母さんは俺を産んだわけでもないのに親の代わりをしてくれた、そんな優しい人だから。じゃ、開けようか」

 彼が酒場のドアを開けると、酒場の中にはテーブルに赤い花が挿してある花瓶があり、ささやかながら装飾が施されていた。そして、沢山の美味しそうな料理の数々がテーブルを彩っていた。

「いらっしゃーい! 今日はパーっとやるわよ! あ、ペンちゃん久しぶりー! 元気してた? 病気とかしてない?」

 レオナは元気よく二人と一匹を迎えた。
 
「レイネちゃん、今日はあなたの為に色々用意したのよ。料理も沢山作ったから、遠慮なく食べてね」

 そう言った彼女はレイネの頭をそっと撫でる。

「それでは改めて……レイネちゃん! ようこそ私達家族へ!」

 レオナはそう言って拍手をした。

「じゃ、僕も改めて……ようこそ、我が家へ」

 彼女の拍手に続けてフィリオが手を叩いた。
 レイネは彼女らの祝福を受けて表情が少し明るくなった。

「……ありがとう」

「さぁ、どれも腕によりをかけて作ったからどんどん食べてちょうだい!」

 レオナは腰に手を当てて自信満々に言った。
 テーブルには焼き魚やステーキ、トマトスープなどの多種多様な品々が所狭しと並んでいた。
 レイネはそれらをじっくりと見つめた。これ程までの豪勢な料理は見た事が無かったのかもしれない。

「さ、食べましょ食べましょ! こっち座って!」

 レオナに言われるがまま二人は椅子に座った。

「さ、食べようかレイネ。それじゃ早速……いただきまーす!」

「いただき……ます」

 レイネはフィリオの真似をするように言った。
 彼女は木製のスプーンを不器用に持ち、一番食べたそうにしていたトマトスープを飲もうとした。彼女の上手とは言えないスプーン捌きで掬ったそのスープは少しそこから溢れた。

「ん……」

 スープから湯気が立つ。彼女はフーと息を吹きかけることもせずにそれをそのまま口に運んだ。そんな彼女の様子を眺めていたレオナとフィリオの二人は、さながら親の様であった。

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20 :零
2024/03/14(木) 20:18:24

「っ……あつい……」

「大丈夫?フーってやって冷ましてから食べていいのよ?」

「あつい……けど、おいしい」

「おっ! 美味しい……だってさ、母さん」

 フィリオがそう言って、彼とレオナの二人は顔を見合わせて笑った。

「良かった……レイネちゃんがそう言ってくれて私とっても嬉しいわ」 

 食べ物に息を吹きかけて冷ます、という事を覚えたレイネは、余程そのスープが気に入ったのか、スプーンで掬ったそれに、ほのかに息を何回か吹きかけてひたすら飲んでいた。

「レイネ、スープもいいけど、魚とかもあるよ」

「そうよー。この魚は私の親友が釣ってきたやつで……このステーキも私の知り合いが狩ってきたお肉を使ってるのよ」

 彼女のそんな姿を見た二人は言った。
 彼女は小さく舌舐めずりをして目線を魚に移し、フォークをぎこちない手つきで使い、なんとか一口分の魚をそれに刺した。

「ねぇフィリオ、この子フォーク使った事ないの?」

「それが……レイネはやっぱり色々忘れてるみたいで……」

「それにしても、フォークの使い方まで忘れるものなのかしら……」

 そんな一方で、ペントが籠から出てきて一目散に肉の海へ飛び込んだ。

「あー! ペント! そっちのは僕の肉だってば……」

 フィリオは慌てて言った。

「ペンちゃんはいいのよ! どんどん食べて! 私の可愛いペンちゃんなんだから!」

「レオナさん……そりゃないよ……はぁ……」

 パーティーが続くにつれて、だんだんと酒場の中は盛り上がり、温かい雰囲気になっていった。
 パーティーは青空がオレンジ色になるまで続き、彼らは一通りの料理を完食した。

「さ、みんなたらふく食べられたことだし、今日は私からレイネちゃんにプレゼントがありまーす!」

「え?なんだろう、楽しみだな」

「プレゼント……?」

「そ。お祝いとしてね。今持ってくるから待っててね」

 そう言って奥の物置部屋に入っていった彼女の発言に、フィリオは思わず心が踊った。レイネも目を輝かせていた。
 暫くして彼女が戻ってくると、彼女の手には白いワンピースがあった。

「どう? 私がちっちゃい頃着てたやつなんだけど、レイネちゃんに合うかな?」

「あ、そうそう、僕ら丁度レイネの服が欲しかったんだ!ありがとう母さん!」

 フィリオはまるでレオナが自分の心を読んでいるかの様な気がしたので、その感謝の言葉には驚きが混じっていた。
 レオナは試しに、レイネにそのワンピースを着せてみることにした。
 レイネの白く繊細な肌を、同じ様に澄んだ白いワンピースが包み込む。

「どうかな……よかった! ピッタリじゃない……! うん、とっても似合ってるわ」

「良かったな、レイネ」

「実は昨日初めて会った時に思ったのよ。なんで男の子が着るような、しかもボロボロの服着てるんだろうって。それで、急遽物置からそれを引っ張り出してきたってわけ。所々ほつれてたりしたから、昨夜は直すので大変だったのよ?」

「そこまで見てたのか……本当ありがとう、母さん」

 フィリオは改めてレオナに感謝した。

「いーのいーの! 私は自他共に認める街一番の世話焼きなんだから」

「流石母さん……って感じだな」

「私も感謝しなくちゃ。フィリオに」

「え? 僕に……感謝?」

「えぇ……あなたが初めてここに来た時、あなたはまだとても幼くて、私も丁度今のあなたと同じくらいの歳で、ジタンとも結婚したばかりで……あの時私は人としてまだ未熟者だったけど、それでも私は身寄りのないあなたを助けたかった。そして今何より思うこと。それは、フィリオを家族にして良かったってこと。だから、私の家族でいてくれて、ありがとう」

 彼女の言葉に、フィリオはハッとなった。僕達は血の繋がりは無い、でも確かに僕達は、家族なのだと。

「そしてレイネちゃん。あなたも、私達を受け入れてくれて、本当にありがとう。そして、改めて……私達家族へようこそ」

 彼女はそう言ってレイネを優しく抱きしめた。

「……て、あったかい……」

 レオナの目には涙が浮かんでいた。

「レイネ……ようこそ。我が家へ」

 そう言ったフィリオも、レイネをその手で、その温もりで、そっと包み込んだ。
 今日、レイネはフィリオ達の家族になった。

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21 :零
2024/03/16(土) 00:41:41

【#10 Verbena】

「なぁレイネ、ちょっといいか?」

 よく晴れた朝、フィリオがいつもの様に朝ご飯のパンを食べているレイネに話しかけた。

「……なに?」

「ちょっとだけ、君に頼みたいことがあって」

 フィリオは今までレイネに頼み事をしたことがなかった。コップをとって欲しい、ペンタにエサをやって欲しいなどといったごく小さな事でさえ、彼は一切要求することがなかった。それは彼なりの不器用な優しさであったが、彼は自分のその優しさがかえって彼女を縛り付け、支配しているのではないかと思ったのだ。

「あのさ……ちょっと、おつかいに、行ってきてくれないか?」

「おつかい……?」

「ま、可愛い子には旅をさせよってやつだ」

「……?」

レイネはパンを咥えたまま首を傾げた。彼女の長い亜麻色の髪は、地面と垂直の関係性を保っている。

「おつかいってのは、具体的に言うと……ルミンの店でパン買ってきてって話。いきなり、無茶言ったかな……」

「……いっしょ?」

「いや、君一人で行くんだ」

「ひとり……」

 レイネは不思議そうな顔でこちらを見つめていた。
フィリオはやっぱり自分は無茶なことを言ったのか
もしれない、と少し反省して彼女の方をじっと見ていた。
 しばらくの間、この広いとは言えない空間に沈黙が流れた後、レイネが口を開いた。

「……わたし……いきたい」

「行ってくれるのか?無理しなくても良いんだぞ」

「むりしてない」

「本当か……? 強がってないか?」

「つよがって……?」

「出来ない事を出来るって言ったり、自分をことさらに強そうに見せるって事だよ」

「つよがってない……よ」

彼女はそう言うと頬をほのかに膨らませてムッとした。彼女の瞳がまるで「私を舐めるな」と訴えるかの様に輝く。そのあまりに純情で凛然とした瞳を見たフィリオの心中に、彼女を心配する思いはもう無かった。

「よし、君のやる気はよーく伝わった。じゃあ、準備開始!」

 かくして、レイネはその身一つでおつかいに行くことが決まった。
 レイネは早速出発への準備を始めた。パンを買って来れるだけのお金を、革で作られた小さなバッグに入れて、彼女の白く細長い首から下げ、つい数日前に帽子屋で買った赤いリボンが巻かれた麦わら帽子を深く被った。

「これ……にあってる?」

 レイネは頭に被った麦わら帽子に手を当てて言った。

「あぁ、似合ってるさ」

 フィリオは微笑んだ。

「それじゃ、いってらっしゃい」

「……いってらっしゃい?」

「人を見送る時の言葉だよ。そう言われたら、『いってきます』って言うんだ」

「いって、きます」

 レイネはそう言ってフィリオに背中を向けた。彼女のワンピースは背中が大きくあいている。
 彼女はドアをゆっくりと開ける。二人が出会ってから、ドアというドアは全てフィリオが開けていた。しかし今、レイネはドアを自分で開けた。彼女のそんな姿に、フィリオは小さな成長を感じるのだった。
 それが閉まる音がアトリエに響く。

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22 :零
2024/03/16(土) 00:53:31

「行っちゃったな……レイネ」

 フィリオはゆっくりと歩いて、アトリエの椅子に座った。

「待ってる間は……作業作業。この絵、もうちょっと何とかならないかな……」

 フィリオはポケットから筆を取り出し、絵の制作に取り掛かった。

「……」

 フィリオはパレットに絵の具を出して、溶き油で混ぜ合わせていった。
 いつもならレイネがすぐ横で彼の作業風景を眺めているのだが、今回は違った。

「レイネがいないとこんなに淋しいものなのか……なんか、調子狂うな……」

 フィリオは、自分にとってレイネがいかに大切な存在になっていたかに気付かされた。

「一人って、こんなに淋しいものだったっけ……」
 
 フィリオは独り言を呟く。

「迷わずに帰って来られるといいけど……ま、ルミンのパン屋へは二人で何回も行ってるし、ここからそう遠くないから、ま、大丈夫でしょ」

 フィリオはそう言って絵の作業を再開した。
 キャンバスには桃色のバーベナの花が描かれていた。
 しばらくして街が丁度昼になった頃、フィリオは窓の外を見て言った。

「あれ、雲だ……しかも黒い雲……これは雨が降るかもしれないな。しょうがない、レイネを迎えに行くか」

 フィリオは心配して、まだ帰って来ないレイネを見つけに急いで外に出た。
 フィリオはいつものルミンのパン屋へ向かう道を辿っていった。
 しかし、レイネらしき人影は見えなかった。

「もう帰り道を歩いてると思ったんだけどな……レイネ、どこ行ったんだろう? ルミンとずっと話してるとか?」

 それから彼は、そのままルミンのパン屋へ走って向かった。青い空が、黒い雲に包まれていく。

「なぁルミン! レイネいるか?」
 
 彼は勢いよく店のドアを開けて言った。彼の息は荒かった。彼は子供の頃から運動は苦手としている。

「お、フィリオ! おっすー! レイネちゃんなら結構前にここを出てったよ」

「あ……ありがとう」

「レイネちゃん、おつかいだって言って張り切ってたわよ! 健気よねー! 可愛いよねレイネちゃん! 私もあんな風に色白で清楚な女に生まれたかったわ……」

 ルミンがカウンターに頬杖をついて言った。

「あぁ、そういう話いいから! 実はレイネがまだ帰って来てないんだよ!」

「どえ! なんですと!? それは大変! 私も探すの手伝うわ……と言いたい所だけど、店を空ける訳にはいかないから……とにかく! レイネちゃんの捜索、頑張って! 確か、空がこんな雲に覆われる前には店を出てたはずよ」

「あ……情報ありがとう!じゃ、また」

 絵の作業に没頭して天気の変化に気が付かなかったフィリオにとって、ルミンの情報は当てにならなかったが、それでも彼は彼女に一応お礼を言って、店を去った。すると空が一瞬、白く光った。

「レイネ……どこ行ったんだよ……!」

 彼がそう言った刹那、雷が怒る様に轟音を出す。大雨が降って来た。それでも彼は街を走り続けた。ただ彼女に会いたいというその一心で。
 彼はさまざまな場所を探し歩き、やがて人気のない街角にやって来た。すると、彼の瞳にレイネらしき少女の姿が映る。

「……レイネ!」

「……ん」

 少女は確かにレイネだった。フィリオの全身は雨に打たれて濡れていたが、彼にとってそんな事はどうでも良かった。
 彼は真っ先にレイネに駆け寄った。彼女は何故か道端でぐったりとしていた。

「レイネ! 大丈夫か? 何があったんだ?」

 フィリオは彼女の手に花が握られているのに気が付いた。

「レイネ、これはもしかして……」

「はな……きれいだったから、かったの……よろこぶ……と……おもって……」

 震える口でレイネは言った。

「レイネ……それで?」

「それで……みち……わからなくなった……」

「そうか……ありがとうレイネ。その花を買ってくれて。全身雨に濡れて、それでも家に帰ろうとしてくれて」

 フィリオは彼女をおつかいに行かせた事を後悔した。水晶の様に純粋な彼女の優しさが痛かったのだ。
 彼女が手にしていた桃色のバーベナの花から、一粒の水滴が落ちた。

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23 :零
2024/03/16(土) 01:27:50

【#11 Rain】

 夕方になった。空は雲に覆われていて、夕日は見えなかった。
 大雨に打たれる中、レイネは小さなくしゃみをした。しかしその声は、すぐに雨音にかき消されてしまった。

「……さむ……い」

「大丈夫か?」

 フィリオはもしやと思い、レイネの額に濡れた手を当てた。その瞬間、彼女はまたくしゃみをした。

「やっぱり熱が出てるな……大変だ、すぐにリーフ爺さんの所へ行かないと!」
 
 彼の悪い予感は当たった。

「大丈夫、大丈夫だ。僕が始めた事だ、僕がなんとかする……きっとなんとかなる……」

 フィリオのその言葉は、彼自身を安心させる為のものだった。彼は唾を飲んでレイネをおんぶする。

「よいしょっ……と。レイネ……大丈夫だぞ」

 今度の「大丈夫」は、レイネへの言葉だった。

「……」

 レイネは彼の背中の温もりを感じて、少し安心した様な表情を浮かべた。
 フィリオはレイネをおんぶして街の南西部にある街病院へ向かって走った。雨は絶え間なく降り続け、二人の全身を濡らす。それはさながら二人への罰の様だった。
 フィリオは雨に負けずに走り続けた。

「ん……」

 レイネが何かを言いかけた。
 
「レイネ! 大丈夫か?」

「……だい……じょうぶ」

 レイネはそう言っているが、フィリオは彼女の事が心配でしょうがなかった。
 そして二人はようやく街病院へたどり着いた。
 フィリオが雨に濡れて冷たくなったドアを開ける。

「……ハァ……ハァ」

 フィリオはここまで長い距離を走ったことがなかった。ましてやレイネをおんぶしながらだった故、彼はすっかり疲労困憊していたのだ。

「おや、これはどうしたんだい」

 どこか懐かしい匂いがする部屋の奥から、掠れた老婆の声が聞こえた。

「この子を……よろしく……お願い……します」

 フィリオは最後の力を振り絞って言った後、その場にバタリと倒れ込んだ。

「おやまぁ、これはフィリオじゃないの。またおっきくなって……」

 老婆はゆっくりとした口調で言った。老婆は短身で、ベージュの服を着ている。

「早く……クリスおば……さん」

 老婆は街の皆んなからクリスと呼ばれてるが、本名はクリスティーンと言う。フィリオと家族と言う訳ではないが、彼は彼女を家族の様に愛し、慕っていた。
 
「あらいけない。はやく手当をしなくちゃ。でも、まずは体を拭かないとね」

 クリスティーンは部屋の奥の棚からおもむろに布を二枚取り出し、「どうぞ」と言ってそれを二人に差し出した。

「ありがとうございます」

 フィリオはようやく息の弾みが収まり、レイネの体を拭いた。レイネの顔色は悪く、生気を失っているかの様に見えた。

「レイネ! 大丈夫か!」

 レイネに視線を移したフィリオが、慌てて彼女を持って揺する。

「クリスおばさん! リーフ爺さんは居ないんですか?」

「まぁまぁフィリオ、落ち着きなさい。慌てても良いことなんか一つもないわ。爺さんは二階で本でも読んでるんじゃないかしらね。呼んでくるからちょっとだけ待っててちょうだい」

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24 :零
2024/03/16(土) 01:29:50

 クリスティーンは二階へ、のそのそと階段を上がっていく。フィリオはその間に、部屋の右側にあるベッドにレイネを寝かせた。

「はぁ……」

 フィリオは心配そうに彼女の頭を撫でる。

「よぉ、フィリオ。随分と久々じゃあないか。どれ、この子を診りゃいいんだな」

 部屋の奥から今度は掠れた老爺の声がした。

「リーフ爺さん、お久しぶりです……この子を、お願いします」

「安心しろ。私に任せてくれ」

 リーフは仏頂面の割に優しい言葉を吐く男だった。

「どれ、ちょっと失礼」

 彼がレイネの額にシワだらけの手をそっと当てると、レイネのくしゃみが部屋に響いた。

「……うむ。これは……」

「……こ、これは?」

 フィリオが固唾を飲んで聞き返した。

「心配ない。ただの風邪だ」

 リーフはそう言って静かに笑った。

「なんだよ……心配した……」

 フィリオは彼の言葉を聞いてそっと胸を撫で下ろした。

「クリスティーン、風邪薬を頼む」

「はい、分かりましたよ」

 リーフの頼みを聞いたクリスティーンは調合室へ行った。

「それにしてもお前さん達、何があった?」

 リーフがフィリオに問う。

「えと、僕がレイネを一人でおつかいに行かせて……あ、レイネの事知らないですよね」

「話はタウルから聞いている。この街は人の話が広まりやすいからな」

「そっか。そうでしたね。これも人の縁、か」

 この街の人々は皆が家族の様で、人と人との繋がりが深い。彼は今その温かさを実感した。

「あ、そうそう、それで……レイネにパンを買ってくれってお願いしたんです」

「ルミンのパン屋か。それだったらお前さんの家からは近いんじゃないか?」

「そうなんです。そうなんですけど、レイネがパンを買った後、余ったお金で商店街に行って花を買いに行ってたみたいで……」

「なるほどな。それがあの花という訳か」

 リーフはレイネが持っていたバーベナの花を見て言った。それはまだ彼女の手に、強く握られていた。

「レイネは花が好きで、僕のために買って来てくれたんです。でも帰る時に道に迷っちゃって、それで、雨も降ってきて……」

「そうか。それは災難だったな。分かった。フィリオ、一つだけ言っておきたい事がある」

「なんです?」

 リーフはベッドへ歩いた。そしてバーベナを彼女の手から離し、それを眺めながらこう言った。

「レイネと言ったな……その子を褒めてやってくれ」

「褒める……」

「レイネはお前さんのためを思ってやったんだ。それは紛れもない愛だ。彼女なりの優しさだよ。その愛を受け取ってやるのが、親の義務だろう」

「親、か」

 フィリオはジタンを思い描いた。もし彼が自分なら彼はレイネにどうしていただろうか。
  
「親と言うのは子から無償で愛を受け取っている。だからこそ、その愛を無下にしてはいけない」

「無償の愛……」

 フィリオは考えたことがなかった。自分がジタンへ無意識のうちにどれだけ大きな愛を与えていたかを。

「そうだフィリオ、もう一つ話したい事がある。レイネは記憶を失っていると言ったな」

「はい。何か分かった事があるんですか?」

「いや、何も分からないどころか、謎が増えた。レイネの症状は記憶喪失と言って、主に頭を強く打ったり等の物理的な衝撃によって引き起こされるのだが、レイネには目立った外傷が無い。その為、何故レイネは記憶を失ったのかは定かではない。この病気は現在治療法が確立されていない故、今の私にはどうしようもできん。すまない」

 悲壮な口調でリーフは語った。

「そうですか……リーフ爺さんが謝る事ないですよ。大丈夫です。たとえ失った記憶が戻らなくても、これからレイネは僕と一緒に色々な事を経験して、沢山の事を覚えていきますから」

「そうか……フィリオ。遅くなったが、これを受け取ってくれ。レイネからお前への気持ちだ」
 
窓から打ち付ける雨の音が聞こえる。
 リーフはレイネのバーベナの花をフィリオに渡した。彼はそれを何も言わずにそっと受け取った。

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