日記一覧
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262.備忘録
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142 :
歌-仙-兼-定
06/04(土) 02:59
あれは、何時だっただろうか。
細-川の家に呼び戻される前……いや、緑に囲まれたあの場所での事かも知れない。
まあ何にせよ、僕がまだ、今の主の声を聞く前の事だ。
刀だったか、茶器だったか、掛け軸だったか……僕に恋をしたと告げてきた物が有った。
たしか、彼は黒かった。年下だったかな。どうだろう。可愛らしい、という印象は残っているけれど。
彼は、付喪神の身でも恋は出来るのだと、熱心に言ってきた。……ような、気がする。
何度、袖にしたか覚えていない。物が物を欲するなんて、とんだ茶番だと笑ってしまった。いや、怒ったかもしれないな。
それでも彼とはそれなりに、言葉を交わした気がする。暇を持て余していたからだろうね、きっと。
何故こんな朧気な記憶を手繰り寄せたかと言えば、たった一つだけ、覚えている言葉があるからだ。
それがふいに頭を過ぎったから、書き留めて置こうと思ってね。
”恋の仕方も、恋人ってのはどんなものかも、俺が一から教えてやるよ。”
細かい言葉遣いは違うだろうけれど、確かそんなような事を言っていた。
僕の腕を欲して縮こまる癖して、言葉ばかりは尊大に。
……ああ、そうだ、確か彼は茶碗だったな。控えめで、脆そうな、きっと今は残っていないような。そんな茶碗だった。
あの方に買い戻して頂くまで、時を共にしていたんだったか。いけないね、顕現前の記憶はどうも、混濁しやすい。
結局、僕は恋を教えて貰えなかった。恋人とはどんなものかも、分からず仕舞いだった。
そもそも、物の身で恋”人”など。おかしな事だったのだろう。彼はきっと、変わり”物”だったんだ。
彼が教えようとした事をまるで体得出来なかった件について、その時はまるで残念に思わなかったのだけれど。
今こうして人身を得てみると、きちんと習っておきたかったと、今更ながらに思う。
酸いも甘いも確かに感じる事の出来るこの体で、恋を知らないなんて、勿体無いじゃないか。
書物にある、ありとあらゆる恋の話を、一枚硝子を隔てた向こう側の事の様にしか味わえないなんて、どう考えたって損だ。
花は盛りに、と、実感を込めて口に出す事が出来たなら、そんなに素敵な事は無いだろうに。
「それでちょこちょこ城下におりてるわけ?」
――……息抜きだよ。
「咎めてんじゃないって。だけどさ、それ、アンタの本意なの?」
――というと?
「だって全然、意に沿った遊び方してるように見えないからさー」
爪を赤く染めながら、大して興味も無さそうに言う加-州が、横目に僕を見る。
「数打ちゃ当たるってモンでも無いでしょ。行動しなきゃはじまんないけどさ。大体……」
――?
「……やっぱなんでも無いや」
言いかけて止めるのは、彼の悪い癖だと思う。
けれど、そう言ってすっくと立ち上がる彼の、細くて真っ直ぐな背中が、妙に眩しく見えた。
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