Yahoo!ショッピング

スレ一覧
381.【小説】箱庭のLABYRINTH
 ┗4

4 :樹暁
2024/04/28(日) 10:45:29

【プロローグ ウサギ穴に落ちて】

 蜘蛛の巣みたいな霧が張られた灰色の世界。くすんだ黄緑の芝生が世界の果てまで続いているが、霧が地平線を隠していてその様子は見えない。光源らしき天体は存在しないものの、その世界は暖かな光で満ちていた。くすくすと、子供達の笑い声がする。希望と期待を孕んだ静かな笑い声。子供達は、複数名で話している者達も居れば、一人で原っぱを駆ける者も居る。行動は十人十色であっても、皆一様にくすくす笑うだけで、それだけで、静かであった。
 見上げる気すら失せてしまう大樹が、盛り上がった小丘の真ん中に佇んでいる。風もないのに、さぁさぁと葉擦れの音がする。枯れた木のような色彩を失った木肌。それにもたれる影が一つ。小さな女の子だ。頭頂部の左寄りに団子結びをした、腰まで届く長い金色の髪。同じく金色のまつげに縁どられた瞼は固く閉じられている。黄色を基調としたエプロンドレスは座った体勢に沿ってしわが寄っていた。足全体を覆うハイソックスと黒の靴を身に着けた足は八の字に開いて伸びている。微動だにせず、一見死んでいるようにも見えた。彼女はすうすうと寝息を立てている。寝ているだけのようだ。

「嗚呼、忙しい忙しい」
 
 彼女の眠りを妨げる者が居た。見えない地平線の向こうから、何かがやって来る。ソレは草原を大きく跳ねながら、ぐんぐん大樹に近付いてくる。子供達は大樹を中心に散らばっていて、大樹から遠く離れた場所に居る子は居ない。故に子供達がソレに気付くのは、ソレの出現からしばらく経った後だった。
「嗚呼、忙しい忙しい」
 ソレの姿が更に大樹に近付き、霧の中から露になった。
 灰色の世界に似つかわしくない、目が痛むほどの鮮やかなピンクのチョッキと、豊かな胸毛に埋もれた緑の蝶ネクタイを身に着けた、太った白ウサギだ。青いズボンから生えた足を動かして、白ウサギは眠る彼女の元へ来ると、急かすように早口で捲し立てた。
「アリス、アリス、起きてください。貴女の順番が回って来たのですよ」
 アリスの瞼が震え、ゆっくりと水晶のような真っ青な瞳が現れた。くりっとした可愛らしい目はしばらく虚ろに色を落としていたが、やがて光を宿し白ウサギを見た。白ウサギの橙色の目とアリスの青色の目とが視線を交わす。
「じゅんばん?」
 アリスは何のことかさっぱり分からなかった。だからアリスは白ウサギに聞き返した。
「嗚呼、忙しい忙しい」
 しかし白ウサギは応えなかった。左手――左前足――に着けた金時計をちらちらと見ながら、走ってきた方向とは違う方向へまた走っていく。
 服を着て直立するあの奇妙な白ウサギを、アリスは何度か見たことがあった。時々こうしてアリス達の居る灰色の世界にやって来ては、アリスに訳の分からないことを捲し立て、そしてどこかに消えていく。意味不明な言動の答えも残さず、走り去る。今のこれだって、いつものことだと言ってしまえばそれだけだ。アリスはいつも、白ウサギが去った後はまたうたたねを再開する。
 
「待って!!」

 しかし、今回アリスは白ウサギを追いかけた。アリスがその理由を理解することはなかった。ただ「ウサギさんをおいかけなくちゃ」という思考だけが、アリスの脳を支配していた。それは本能に似たものだった。理由の必要すらない欲求にも似た意志だった。
 小丘を転がる白いだるまを追いかけて、アリスは草のカーペットの上を駆けて行く。大樹から離れるにつれて、大地を覆う霧が濃くなる。静かな空間に、アリスの息遣いとアリスが野を踏む音だけが響く。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 いつの間にか息も乱れ、アリスの足の動きが鈍くなる。それでもアリスは足を動かす。遠くに来てしまったのか、それだけ霧が濃いのか、アリスの背後にあった大樹は影も見えなくなっていた。大樹だけではない。白ウサギも濃霧に呑まれて消えていた。あの奇抜なピンクはどこにも見えない。アリスは無自覚に走るのを止め、徒歩に切り替えていた。アリスが鳴らしていたザクザクという草が踏まれる音は無くなり、徐々にアリスの荒い呼吸も治まってくる。すると、アリスを静寂が包んだ。アリスはどうしようもない不安感に襲われた。慌てて振り返るが、そこにあるのは灰色の霧だけで、一寸先の芝生すらアリスの視界に映らない。
 それでもアリスは歩を進める。前に向き直り、大声を張り上げる。
「ウサギさーーん!!!」
 その声は木霊すらせず霧に溶けていく。シィンと静まり返った空間に、アリスは取り残されたのだ。

 突如、アリスの足元から地面が消えた。

「えっ」

 アリスが声を上げる。次の瞬間、アリスの姿は灰色の世界から消えた。

[返信][編集]



[管理事務所]
WHOCARES.JP