「……行ってらっしゃいのキスは？」

頬ではなく唇にキスをしたら、あなたは春風のように爽やかな笑みを浮かべて部屋を出て行ってしまった。同時に、太陽までが雲に隠れて、陽射しを衰えさせたわ。

わたしは思い付きのまま、アリアを歌い上げたの。愛する人と駆け落ちをした少女の歌よ。ねえ、可哀想なマノン！どうして棄ててしまえるの？壁の染みも、床の軋みも愛すべきものだわ。テーブルについた小さな引っかき傷さえ、彼と刻んだ幸せのしるしなのに！

その歌はわたしの気持ちをいくらか傲慢に、そして誇らしげにしたわ。だって、贅沢なんて求めない。あの人が傍に居てくださるなら…それだけで幸せだもの。

「──ご機嫌だなあ…それ、飾るのかい？」

少し萎れてしまったけれど大丈夫。
お水をあげたら、きっとまた元気になるわ。

殺風景なお店の中に、薔薇が一輪だけ。それなのにわたしが取り上げてしまったから……、この薔薇の絵を描いて、店主にお返ししようと思うの。本物のお花はいつかは枯れてしまうけど、絵の中なら色褪せることなく、いつまでも綺麗に咲いていられるもの。上手に描けたら店主も喜んでくださるかもしれないわ。メニュー作りも、看板作りも、わたしに任せてくださるかもしれない。

あのお店でハバネラを歌って、この薔薇を手にしたことにはきっと意味があるの。わたしが差し出して、あなたが受け取ったお花。あらゆる偶然の産物は、あなたの幸運が引き寄せてくださったもの…、そう感じているわ。

「遠かったからなあ。あまり見えなかったけど、あの子、確かに可愛い雰囲気だったかも……。」

墓穴を掘ってしまった気分だわ、ああ！
黒いツグミ達の中に、働き者の可愛いらしいコマドリを見なかった？……初めは気付いていないご様子でしたのに。わたしがあんまりにも気にするものだから、あの人が急に意地悪なことをおっしゃるの。

だけど、わたしも一つ気付いたことがあるのよ。あなたがわたしをからかったり、小さな意地悪をする時によく見せる素振り。いたずらに空気を揺らす時の、あなたの視線。だから、唇ではなく瞳で訴えることにしているの。無言の我慢比べでは、優しいあなたがいつも先に折れてくださることをわたしは知っているんだから。

それとも、指を噛んだほうが良かった？