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┗373.【小説】MOONLiT(41-60/64)

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41 :零
2024/03/17(日) 17:18:17

 レイネはそう言うと、突然その木板を落とした。彼女の手は震えて動かず、顔は急激に青ざめた。
 そしてレイネは何も言わずに頭を抱えてその場に座り込んだ。

「レイネ! どうした?」

 フィリオがすぐさまレイネを後ろから抱きしめる。

「……」

「一体何が起こったんだ?」

 フィリオは心配と恐怖で頭がいっぱいになり、冷や汗が止まらない。

「わたし……よめる……これ」

 レイネは儚い声で言った。

「レイネ……君は……」

 フィリオが震える声で言った。

「……レイネちゃん! 大丈夫?」

 スコルスが呼びかける。

「……だいじょうぶ。ほら……」

 レイネはフィリオの手をそっと握り返した。彼女の手は温かかった。

「良かった……」

「レイネちゃん……この文字が読めるの?」

 スコルスが驚きを隠せない様子で言った。

「うん……だけど、よんだら……こわくなった」

 すると、フィリオが言う。

「怖くなった? レイネ、もしかして、何か思い出したのか?」

「……どこかは、わからないけど……わたし、かぞくがいる……」

「レイネちゃんの本当の家族……その本がどこの言葉なのかが分かれば、レイネちゃんが何者なのか、分かるかもしれないね」

「わたし……しりたい……わたしが、だれなのか」

「レイネ……」

 フィリオは迷った。レイネがこのまま記憶を取り戻せば、彼女は本当の家族の元へ帰りたいと言い出すかもしれない。彼女と一緒に暮らす事が出来なくなるかもしれない。そんな事を考えた時、ジタンが彼の心の中に現れた。「フィリオ、人生には出会いがあれば、別れもある。人はそれを受け入れながら前に進んでいく。だから、別れを恐れる必要はない」いつかの夕暮れ、ジタンは幼き日のフィリオにそう言ったのだった。

「ありがとう。父さん……レイネ、君がそう言うなら、分かった。突き止めてみよう。君が何者なのか」

「フィリオ……この木板、タダであげるよ。どうせずっと売れなかったやつだし、レイネちゃんが何者なのかを知る手がかりになると思うから」

 スコルスはレイネが落としたそれを拾い、汚れを払ってフィリオに手渡した。フィリオはそれをしっかりと受け取った。

「そろそろ、アタシとはここでお別れかな」

 スコルスがどこか切ない口調でそう言った。
 
「スコルスさん……短い間でしたが、ありがとうございました。それじゃ、いってきます」

「……さよなら」

 レイネとフィリオの二人はゆっくりと立ち上がり、スコルスに別れを告げた。スコルスは笑顔で言葉を返す。

「今までありがとう。アンタ達に出会えて本当に良かった。二人とも、いってらっしゃい」

[返信][編集]

42 :零
2024/03/17(日) 17:22:33

【#20 Fate】

 帰りの船に揺られながら、フィリオはぼんやりと空を見上げていた。レイネは何処か不安そうに彼の腕を掴む。

「なぁ、レイネ」

「……なに」

「もし……もしも、僕と君が離れ離れになる事になったらどう思う?」

 彼女は何も言わずにフィリオの腕を更に強く抱きしめた。

「嫌な質問だったかな……」

 そう呟いて、彼はレイネの顔を眺める。
 かれこれ三日間に及んだ旅を終えて、二人はルーンプレナに帰ってきた。フィリオはレイネと街を歩きながら、何処か懐かしい故郷の匂いを感じていた。

「よーし! 帰ってきたなーレイネ! ランテ国も良い所だったけど、やっぱりなんだかんだ言ってここが一番だな……」

「わたしも、このまち……すき」

 レイネは笑顔でフィリオに言う。

「しっかし寒いな……」
 
 彼は、街がより一層寒さを増している様に感じた。秋が深まり、季節は冬になろうとしているのだ。

「レイネ、これから冬って言う季節になるんだ」

「……ふゆ?」

「冬にはね、雪っていう水が白く固まったものが空から降ってくる。それが凄く綺麗なんだよ」

 フィリオは空を仰いだ。

「みてみたい」

 レイネも彼の後に続く様に空を眺める。

「多分、今年も降るだろうから、きっと見れるよ。その時は、一緒に見ようね」

「……うん」

 二人はそんな約束を交わし、手を繋いだ。この幸せが、このひと時が、永遠に続く様にと、フィリオは願っていた。
 次の日の朝、たっぷり睡眠をとって疲れを癒した二人は、いつもの様に朝食を食べる。
 ひと足先にパンを食べ終わったフィリオが、まだパンを口に咥えて黙っているレイネに言う。

「レイネ、今日は図書館に行こうと思ってる。スコルスさんがくれたこの本に書かれた文字の謎、君がこの文字を読める謎……図書館ってのは、言わば知識が集まる所だ。図書館に行けば、君の疑問もきっと解けるさ」

 フィリオは、テーブルに置かれたあの本を手に取った。
 するとレイネがパンを置いて言う。
 
「……わたし、じぶんをみつけたい。だから、いまはもう、こわくない」

「……」

「今はもう怖くない……か。僕もだよ、レイネ。今まで怖かったんだ。君が何者かを知る事が。でも知りたいって思う気持ちもあったし、何よりレイネ自身がそれを願ってる。どんな道だろうと、僕らの心はおんなじ温度だって、そう思えたから、今は怖くない」

 フィリオはレイネに手を伸ばす。彼女がその手を掴むと、彼女の温度が優しく感じられた。

「うん……おんなじ、あったかい……おんなじ、きもち」

 そして二人は図書館へと向かった。図書館はフィリオ達の家から北の方へ進んだ街外れに位置する。浴場や警吏の駐在所よりも大きなレンガ作りの建物で、そこかしこにつたが這っている。
 到着すると、フィリオは重い図書館の扉を何とか開けて、すたすたと入っていく。中に入ると人気はなく、大きな地球儀や螺旋階段、こちらをじっと見つめる彫刻が目につく。勿論、二階にもある大量の本が圧倒する様に置かれている。レイネは慣れない場所に戸惑っている様子で、あちこちを注意しながら見ていた。

「相変わらずここの扉は重たいんだよな……エリアス、どうにかなんない?」

 フィリオは足を止めて、椅子に座っている短身の娘に話しかけた。
 
「……」

「はぁ……エリアス! 起きろー」

 彼はその娘を揺さぶる。彼女の名はエリアスと言って、彼の友人である。

[返信][編集]

43 :零
2024/03/17(日) 17:23:05

「……」

 エリアスは本棚に寄りかかってすやすやと眠りについている。彼女の特徴的な白くて肩にかからない程度の髪が、窓から刺す光を反射している。

「起きろってば」

「……ん? あぁ、これは初めまして。わたくしは司書の……って、フィリオさんでしたか」

 エリアスは目をぱちりと開けて、フィリオに布団の様な優しい口調で言った。

「気付くのが遅いんだよ……」

 ため息を吐くフィリオ。

「あら、随分とお若い女性をお連れなんですね。お嫁さんですか? おめでとうございます!」

 エリアスはいつもにこやかにフィリオと接しているが、しばしば的外れな言動をする。

「いや違うし……まだ何も言ってないだろ」

「あら、違いましたか……では、生き別れの妹さんと再会された……とか?」

「予想はいい。説明するよ。この子はレイネ。僕が保護した。どこからやって来たのか、なぜここへ来たのか、全く分からないんだよね。どうやって来たのか……それが一番の謎か」

 フィリオはレイネと出会った時の事を思い出した。レイネが光を放って海の中から出てきたあの時、何が起こっていたのか……考えて分かる様な話ではなかった。

「そうですか。それで貴方は……なぜここへ?」

「レイネの謎を解く為に、協力して欲しいんだ。君の知識と、この本達の力を借りたい」

 エリアスは、彼女の親が残したこの図書館を守る為、たった一人でここを管理している。

「そういう事なら、協力させてください。ここにある本の内容は、ほとんど頭の中に入ってますので」

「何十回と聞いたよそれ」

「あら、そんなに何回も言ってましたか……えーと、何か鍵となる言葉を教えてください。探してみますので」

 エリアスに鍵となる言葉を教えると、すぐにその言葉に関する本が置いてある場所に案内してくれる。彼女が司書の仕事をする中で会得した特技だ。

「おっと、今回は言葉の代わりに木板を見てもらいたいんだ。これなんだけど、どうもよく分からない言葉で書かれている」

 フィリオはあの木板をエリアスに差し出して言った。手がかりとして持って来たのだ。
 彼女はそれを受け取ると、ゆっくりと深呼吸をした。

「木板ですか……珍しい物をお持ちなんですね。それでは早速……読ませていただきますね」

 自信のある口調でエリアスは言って、受け取った木板をじっと見つめた。

「なるほど……これは大変興味深いですね。この国の言語でない事は確かなのですが……」

「ですが?」

 フィリオが訊く。するとため息を吐いたエリアスが言った。

「わたくしにもまだ知らない知識があるものですね……これを頼りに、調べてみましょうか」

 エリアスがどこか悲しそうな顔をして言った。
 彼女は生まれた時から本に囲まれて育った故頭は良く、それに見合う程の自信に満ち溢れた人間だった。彼女なりのプライドが傷ついたのだろう。

「まさか君にも分からない事があるなんてな。よしエリアス、一緒に探してみようか。君の新しい知識を」

 こうしてフィリオ、レイネ、エリアスの三人は、あの本と同じ言語で書かれた本を見つける為に図書館中を探し回ったが、結局見つかることはなかった。
 
「……結局、見つかりませんでしたね、フィリオ」

 悲壮な顔をするエリアス。彼女のプライドが、破れた紙の様に引き裂かれる音が、こちらにも聞こえてくる様だった。

「ま……まぁ、世界は広いって事さ。伸び代があるって事は、まだ前に進めるって事だから」

 フィリオはエリアスを必死に励ます。

「……そうですよね。やっぱり、貴方の言葉には不思議な力がある様に感じます。勇気と元気を与えてくれる……そんな力が」

 彼女が彼の方を見上げて言った。

[返信][編集]

44 :零
2024/03/17(日) 17:23:18

「僕のじゃないよ。父さんの言葉さ」

「そうでしたか。それもジタンさんの意志、ですね」

「あぁ。ところで、二階に一つだけ開かない扉あるじゃん? あそこには何があるんだ?」

 フィリオがエリアスに訊くと、彼女は言いにくそうに答えた。

「実は……わたくしにも分からないんです……亡くなった父から『もしいつか、お前の目の前にどうしても分からないものが立ち塞がった時、この鍵を使え』と言われ、その扉の鍵を渡してくれたんですが、まさか……」

「今がその時、だな」

「わたし……きになる」

「そうですね。きっと、今がその時ですね。開けてみましょうか。あの扉を」

 かくして、司書室から鍵を持ってきたエリアスは、フィリオとレイネが見守る中、二階の扉の鍵を開けた。

「ここが……守るべき部屋……」

 エリアスが驚いた様に言った。中はほこりだらけで窓は無く、一つの本棚があるだけだった。

「守るべき部屋? この部屋の名前か?」

 ランプを持ったフィリオが彼女に問いかける。

「はい。代々続くわたくしの家系はこの図書館と、この部屋にあるものを守り続けてきました。この部屋の鍵の在処も、ここに何があるのかさえも、秘密なんです」

「じゃあ、ここに何があるのかは知ってるんじゃないのか?」

「父はそれすらも教えてくれませんでした」

「そうか……そんなに重要な何かがここに……あれ? 木板がここにも……」

 フィリオが呟くと、レイネが棚に駆け寄って、一枚の木板を手に取る。本棚には、その板一枚しかなかった。

「ほこり被ってるから、よく払ってね」

「『月光記 第一章』」

 フィリオの忠告を無視してレイネは木板を手に取り、呟いた。

「読めるのか? それ!?」

 フィリオは驚いてレイネに言った。彼女は何かに気付いた様子で言う。

「……あ」

「どうしたレイネ?」

「あのいたは……このいたの……つづき」

「続き……なのですか? 一体、どう言う事なのでしょう?」

 エリアスも驚きを隠せない。

「レイネ……その板、一章って言ったよな? 最初から読んでみてくれ」

 フィリオは覚悟を決めた様に話した。

「……わかった」

 そして、レイネは読み上げた。

「我々人類は、足と腕を二本ずつと、背中に自由の象徴たる白き翼を授けられた神の生み出した存在である。我々は月と言う名の大地に住み、平和に暮らしていた。しかしある時、神の存在を信じまいとする者達が現れた。やがて我々とその者達は戦争を始め、全体の半分の人々を死に至らしめた。我々はやがて戦争に敗北し、翼と記憶を奪われ、青き星へと送られる事となった……」

 そう言ってレイネは黙り込んだ。

「え……?」

 フィリオは唖然として立ちすくむ。

「おもいだした……わたし……つきからきたんだ」

[返信][編集]

45 :零
2024/03/17(日) 17:38:06

【#21 Life】

「おい、どういう事だよ……!?」

 フィリオは自分が月からやってきたというレイネの言葉を信じることができなかった。

「わたし……つきでうまれた」

 レイネが言ったその言葉だけが、静寂を切り裂く。

「月と言うと、地球に最も近い星の事ですが……人が住んでいるとは、にわかには信じ難いですね」

「レイネ! 月に人が住んでる訳無いだろ? 何言ってるんだ?」

 レイネは言った。

「でも……これはほんとうのことだとおもう……」

「そうか……もし、君が言った事が本当の事だったとしたら、キミは一体……何者なんだ?」

 フィリオは混乱の渦の中で弱く言い放つ。

「わたし……わたしは……う……あ」

 すると突然レイネがふらっと倒れ込んだ。

「だ、大丈夫か!」

 フィリオはすかさずレイネを抱き抱える。

「う……」

 目を閉じ、何かにうなされている様子を見て、フィリオが呟く。

「あの時の……」

 旅先で、レイネが、手に取った木板を読んで頭を抱え座り込んだ時。あの時フィリオが感じた恐怖、混乱、心配。全てがあの時と同じだった。

「わたし……おもいだしたかも……ぜんぶ」

「レイネ、思い出さない方がいい。君の心が傷ついてしまう、そんな気がする……やめよう、自分の正体とか、どこから来たのかとか……あの時止めるべきだった。もうやめようこんな事」

 息を荒くしてフィリオは思いを吐いた。

「でも、しりたかった。これは……たぶん、つらいこと。だけど、おもいださなくちゃいけないこと……だとおもうから」

 レイネの言葉を聞いたフィリオは、感情を抑えられなかった。

「レイネ……いいんだ。やめよう直ぐにやめよう君が苦しんでる姿を見たくないもううんざりだ!」

 レイネと一緒にいたい。
 レイネと一緒にいたい。
 ずっとずっと一緒にいたい。

「わたし……ね? つきに、かぞくがいた……そう。ほんとうの、かぞく」

「レイネ……」

「わたしは……かえらなくちゃいけない……いつか」

 震える唇から放たれた言葉がフィリオの心を突き刺す。

「やめてくれ……」

「フィリオさん、レイネさん……」

 エリアスが心配そうに二人を見つめる。

「あぁ、そうか」

 フィリオは気付いた。
 今自分の中にある恐怖は、レイネへの心配から来るものではなく、レイネと離れたくないと言う想いから来るものだったのだ。
 フィリオの心臓が強く鼓動する。
 レイネと一緒にいたい。
 レイネと離れたくない。
 レイネの頭を撫でていたい。
 レイネの手に触れていたい。
 レイネと同じ時を過ごしたい。
 レイネと同じ空間にいたい。
 レイネが全て。
 レイネが欲しい。

「はぁ、はぁ……」

 おぞましい何かにフィリオの感情が支配されている様だった。こんな気持ちになったのは初めての事だった。

「レイネ、レイネ……」

「フィリオさん……大丈夫ですか?」

「だいじょう……ぶ?」

 エリアスとレイネが心配を口にし、レイネはフィリオの手をそっと握った。
 フィリオは弱々しく言う。

[返信][編集]

46 :零
2024/03/17(日) 17:38:18

「行こう、レイネ」

 高鳴る心音を感じながら、フィリオは彼女の手を握り返した。

「なぁエリアス、頼む。僕が持ってたその板、ここに置いてもらえないか? レイネが読めたんだから、同じ言語のものって事だろ。そしてもう一つ。この部屋を閉じてくれ……今すぐに」

 レイネが握る彼の手は震えていた。

「フィリオさん、ちょっといいですか」

「エリアス……早くここを出るぞ」

 そしてエリアスはこう言った。

「フィリオさん……! 人には誰にでも、知りたくない事、信じたくない事があります! それでも……知識を積み重ねた先に、希望は待っているはずです! 世界は……自分の考え方でいくらでも変えられる。その為に知識が必要なのだと、お父様はいつもわたくしにそう言っていました……」

 この場に沈黙が流れる。

「僕は……ダメなんだ」

 彼は悲壮な口調でそう言って立ち上がり、レイネに手を出した。

「この部屋から出よう。レイネ」

「ちょっと……まって」

「お願いだ……僕と帰ろう」

 彼の目には涙が浮かんでいた。
 レイネは立ち上がって、彼の腕をそっと掴んだ。

「ごめん……エリアス。わざわざありがとう……それじゃ」

「あ……はい……」

 立ち去るフィリオとレイネを、エリアスはただ見つめていた。
 二人は帰路に着いた。曇り空の様な空気が二人の間に流れていた。

「わたし……やっぱりきになる」

 レイネがバターミルクを飲んで言った。

「レイネ、君は知らなくていいんだ。僕とずっと一緒にいるだけでいいんだよ」

 フィリオはレイネの向かいに座って優しくそう話して、彼女を見つめた。
 秋の夕暮れ、突然家のドアが鳴り響く。

「フィリオ! いる? いたら返事して!」

 ルミンの声だ。フィリオは急いで階段を駆け降りドアを開けた。

「どうしたルミン!?」

「フィリオ、よく聞いて。信じられないかもしれないけど……リーフ爺さんが死んだわ」

 ルミンが発した一言の後、二人の間に静寂が一瞬流れた。

「え?」

「本当の事よ」

「おい、嘘だろ……?」

「私も信じられなかった。そして今もまだ……受け入れられないよ」

 ルミンは泣き崩れる。

「そんな……」

 フィリオは突然の出来事に思わず立ちすくんだ。

「私帰るね……」

「分かった……僕、リーフ爺さんの所へ行くよ……」

 そしてフィリオは、レイネを連れてリーフの街病院へと向かった。
 街病院にはクリスティーンに加え、シャンクとサニーがいた。
 
「よぉ……フィリオ」

 シャンクがフィリオに言った。

「フィリオ……リーフ爺さんが、爺さん、が……」

 サニーが流した大粒の涙がベッドに落ちる。

「クリスおばさん……本当に、本当にリーフ爺さんは……」

 いつかこの時が来る事は分かっていた。覚悟はできていたつもりでも、別れを目の当たりにすると、涙が止まらなかった。

「えぇ。爺さんはついさっき、在るべき場所へ還っていきましたよ」

「そんな……ありえないだろ……」

 フィリオは嘆いた。するとシャンクが話す。

「フィリオ。悲しいのは当たり前だ。だがな、いつかこの時が来るって、分かってた事だ。俺達は別れを乗り越えて、前に進んでいく。俺達は先輩の死だって乗り越えてきただろ? 爺さんは、俺達の背中を押してくれたんだよ」

「し……ってなに?」

 レイネがフィリオに訊く。

「ずっとお別れって事さ。もう爺さんには会えない。レイネ、こんな事言わすなよ……」

 彼がそう答えると、レイネはリーフの遺体に寄り添う。

「おきて……」
 
「起きるわけないだろ……レイネ」

「おいフィリオ……」

 彼を心配する様子でシャンクは声をかけた。

「僕……帰るよ。レイネはここにいていい。少し一人になりたいから」

 フィリオはそう言って街病院を出ていった。
 日が落ちて、街は寒さを増す。
 悲しみに包まれた病院の花壇に、リンドウの花が咲いていた。

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47 :零
2024/03/17(日) 17:39:06

【#22 Black】

 フィリオは怖かった。「もう誰とも別れたくない」そんな思いが、彼の心臓に突き刺さって抜けなくなった。彼らは今まで幸せに生きていた。そんな彼らの、のどかで平和な、なんてことない日常が、豪快な音を立てながら崩れようとしている。そんな気がしてくるのだった。
 フィリオはアトリエに一人篭る。自分の気持ちもなんとか整理しようと、自分自身を見つめていたのだ。絵とはモチーフとの対話。そして自分自身を映し出す鏡。そしてキャンバスに投影された己の感情は、時に人の心を動かす。彼は、そんな絵の世界に魅せられたのだ。だから、フィリオは絵を描き続けた。大好きな美しいこの世界をキャンバスに切り取る為に。そして自己を表現する為に。
 フィリオは、はぁ、はぁと呼吸と整えながら、激しい動悸をなんとか抑えようとする。寂しい、辛い、悲しい……負の感情が彼を絶えず襲う。
 彼は背を丸めて、椅子に座って黙り込んでいた。彼の呼吸の音だけが、薄暗いアトリエ全体に響き渡る。

「どうせ僕はダメな人間なんだ。僕はいつまで経っても父さんを越えられない。どれだけ絵を描いても、どれだけ生きても、父さんには追いつけない」

 独り言がアトリエに響く。
 ドアが開く音がした。レイネが帰ってきたのだ。フィリオは彼女に見向きもせずにうずくまっていた。

「ただいま」

「おかえり、レイネ……」

「どうしたの?」
 
 レイネは何も言わずじっとしているフィリオの側に歩み寄って、そう言った。

「レイネ……今日はもう寝るよ……何もしたくないから」

「そう……」

 レイネは言われるがまま、フィリオと共に二階へ上がった。テーブルの、レイネがいつも座っている側に、パンが二つ、皿の上に乗せられている。フィリオが彼女の為に夕食を用意していたのだ。いつもなら、夕食はフィリオの手料理であるのだが、今日はパンだった。彼女はそれを見て呟く。

「わたしの……だけ?」

「僕はいい。君の夕食も、作る元気がなかったんだ……ごめん」

「だったら……たべて。げんきになるために」

 ベッドへ向かうフィリオを、レイネが止める。

「ほら……これ、ひとつあげる」

 彼女は彼にパンをひとつ差し出した。

「ありがとう……でも……ごめん。やっぱり僕はいいや」

「そう……」

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48 :零
2024/03/17(日) 17:39:17

 そしてフィリオはベッドに横になって、眠りについた。
 レイネは彼に何も言わなかった。言えなかったと言った方が正しいのかもしれない。
 次の日の朝から、フィリオはアトリエに籠り続けた。外出する事なく、ただキャンパスと対峙する。漆黒の絵の具を白と混ぜ合わせ濃淡を作る。何日もの時が過ぎ、やがて純白のキャンパスに現れたのは、灰色の世界だった。キャンパスをただ染める灰色。フィリオはもう、絵が描けなくなっていた。
 無意識のうちに、ある日の思い出が呼び起こされる。「やっぱりひと……いっぱい」いつかの春の終わり、レイネが震える声で言った。「いいかレイネ。世の中には沢山の人がいる。君も僕も、沢山いる人々のうちの一人に過ぎないんだ。でも、その一人一人が、みんな特別な存在なんだよ」フィリオはそう言って、レイネに微笑みかけた。彼女と過ごした日々が、彼の心を包む。「あれ……なに?」「あれは雲」「あれ……なに?」「あれは羊」「これはなに?」「これは蟻」「これは?」「これは……君へのプレゼント。シロツメクサの花冠さ」

「きょうも……さんぽしないの?」

 レイネ二階から降りてきてフィリオに訊いた。

「あぁ。ごめんな」

「わたし……さみしい」

「レイネ。どうせ君は帰っちゃうんだろ? 自分の故郷へ。僕はもう耐えられないんだ……リーフ爺さんは死ぬし、もうこれ以上誰も失いたくないんだ。父さんを失った時、僕は絵があったから、前に進むことができた。でも、絵を描く気力がもう、僕には無いんだ。僕にはもう、心の支えが何も無い。僕はもう、死んだも同然だよ」

 そしてフィリオは筆を床に落とした。

「せつなにさくはなは かぜのようにきよく きおくにふるあめは キミのようにふかく」

 レイネが歌い出した。

「このうた……つづきがあるって、クリスおばあちゃんが、おしえてくれた」

「続き?」

 フィリオは知らなかった。幼少期から慣れ親しんだあの歌に続きがあったとは、思いもしなかった。

「いつかはかえる かなたへかえる ボクにわかれもつげずに」

 どこか切ない響きだった。でも、何故か安心する。そんな不思議な力が宿っている様に思えた。

「わたし……ずっとおもってた。わたしも、ずっといっしょに、こうやってくらしていきたいって。はなれたくないって。わかれるのってかなしい。けど……このきもちはむだじゃない……そんなきがする……」

「そうか……でも、もう僕は誰とも別れたくないや」

「でも、わかれは、ひとをまえにすすませるって、クリスおばあちゃんはいってた。きっと、リーフおじいちゃんは、わたしたちを、まえにすすませてくれる。わかれをこわがらなくてもいいとおもう」

 フィリオはこの言葉に聞き覚えがあった。ジタンの言葉だ。

「レイネ……君は……」

「わたしね、ずっといえてなかったことがあるの。それは、いままでわたしといっしょにいてくれて、ありがとうってこと」

 気付けばフィリオは涙が止まらなかった。レイネはその涙を包み込む様に、彼女の方へ体を向けた彼をそっと抱きついた。
 彼は落とした筆を拾い上げ、握りしめた。

「レイネ……今までごめん。レイネが帰らなくちゃいけないってなったり、リーフ爺さんが死んだりして、僕は父さんに教えてもらった事、信じられなくなってた。でもやっと理解できたよ。別れは立ち止まる為にあるんじゃないって」

 そう言ってフィリオは、レイネを抱き返してゆっくりと立ち上がり、彼女の瞳を見つめた。それはまるで、春の陽に咲く花の様であった。

「僕、今までは父さんの言葉に助けられてたって気付いた。けど、これからは自分の言葉、自分の心で、自分自身を支えていきたい。こっちこそ、大切な事に気付かせてくれて、ありがとう」

 フィリオの言葉に、レイネは優しい笑顔で返した。

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49 :零
2024/03/17(日) 17:43:10

【#23 White】

 季節は移り変わる。
 季節はゆったりと動く。
 季節は人々の気分を変える。
 季節はずっとずっと繰り返し、時の流れを人々に教えてくれる。
 そして今、季節は冬を迎える。
 動きを止めると凍ってしまうのではないかと思う程に、今日と言う日は酷く寒かった。 

「レイネ……もうすぐだからな」

 フィリオがレイネを思い、思わず呟いた。向かい風が彼を強く押す。
 ルーンプレナの道を見つめながら、彼はひたすらに、一歩一歩進む。夕方、まだ賑やかな雰囲気が街に漂っている。

「ようやく……着いた」

 そう独り言を言うと、息が白く姿を変えて、フィリオの目の前に現れた。
 かじかむ手でドアを押す。

「……おかえり」

 レイネが駆け寄って、フィリオを迎えた。

「ただいま。お目当てのもの、手に入れてきたよ」

 フィリオの左腕は、暖かそうな生地の服を抱えていた。

「おそかった……」

 レイネはそう言って、紅色の頬をむすっと膨らませた。

「結構待たせたね。急いで夕飯の準備するから、悪いけどもうちょっとだけ待ってて。あ、この服試しに着てみてよ。可愛いの選んできたから、きっと似合うよ」

 そう言ってフィリオは台所へと直行した。
 シャンクが獲ってきた魚を焼いて、塩を振りかける。なんて事ない料理だが、フィリオはこの質素さが好きだった。
 フィリオは台所から、焼き魚を盛り付けた皿を両手に一つずつ器用に持って、居間のテーブルへと運んだ。
 
「出来たぞー、レイネ……お、似合ってるじゃないか。素敵だよ」

 皿をテーブルに置いて、フィリオはレイネの頭をそっと撫でた。

「わたし……このふく、きにいった。ありがとう」

「いえいえ、どういたしまして。これで明日から寒くないね」

 レイネが身に付けたのは、すらっとした水色のクロークだった。

「いくら君が気に入ったとは言え、汚れると悪いから一回脱いでね。これからご飯だし」

「ううん。このままきる」

 レイネは顔を横に振って強く断った。よほど気に入ったのだろう。

「ははっ。ま、いいか。しばらく新しい服の君を見ていたいしね。でも、くれぐれも服は汚さないようにね」

 二人は夕飯を食べながら、いつもの様に会話を交わす。

「なぁレイネ。確か君は、この星に来てから十三回目の満月の日に、月に帰るんだよな?」

「うん」

 あの秋の終わり。フィリオがレイネを抱きしめて、自分を信じたあの日。レイネは言った。「わたし……ここにきてからじゅうさんかいめの、みちたつきのひに、かえらなくちゃいけない。だれがいったかはわからないけど、ふしぎとしってるの」と。「レイネ……そうか。でも、君の本当の家族は、何故君をこの星に送ったんだ? 何が目的で……」フィリオの言葉に、レイネは返した。「わたしは……かえらなくちゃいけない。そして、わたしはそれをうけいれた。いまは、それだけ」
 あれから、フィリオは気がかりだった。このままレイネを本当の家族の元へ返していいものか、と。レイネが風邪を引いた時、レイネは父や兄を呼ぶ様な寝言を吐き、うなされていた事、リーフの言っていた記憶喪失の原因についての話。これらの情報から、レイネの本当の家族は、彼女を本当に愛していたのかと言う疑問が生まれる。そして今でも、フィリオが抱えるこの疑問は解決されていない。レイネが本当の家族の事を話そうとしないのだ。
 
「やっぱり、話してくれないか。君の本当の家族の話。きっと……辛い事があったんじゃないかと思って……話してくれると僕は助かる」

 長い沈黙の後、レイネはその小さな口をゆっくりと開けた。

「……わたしは、だれもきずつけたくない、だからはなしたくない」

 レイネは下を向いて、言った。

[返信][編集]

50 :零
2024/03/17(日) 17:43:23

「レイネ、君は本当に優しいんだね……レイネ、もう何度も言ったと思うけど、君は何があっても僕達の家族だ。確かに、君には本当の家族がいる。でも、こうして君と僕が巡り合って、繋がった。だから僕達も、もう一つの本当の家族なんだよ。家族ってのは、お互いが心の深い所で、いつも繋がっているものだ。だから大丈夫。何を話しても、受け入れるよ」

「……」

「レイネ」

「……」

「何、泣いてるの」

「……」

「レイネ……約束しよう。その悲しみを半分、僕に預けてくれ……それが家族ってものだから」

 レイネの涙が床に落ちる。彼女はか細い声で言った。

「わたしね……つきにいるかぞくに、ずっといじめられてた……でも、なんでだろう……わたしはあのひとたちのことが、きらいになれなかった……だから、もういちどかぞくにあいたい」

 フィリオの頭の中でレイネの言葉がこだまする。

「レイネ、いいかい? さっきも言ったけど、僕達は心の奥深くで繋がってる。離れ離れになっても、僕達家族の絆は変わらない。別れは孤独じゃない。一緒に乗り越えていくものだから」

 レイネは涙を手で拭って、クロークを脱いだ。悲しみで温もりを濡らしたくなかったのだろう。窓の外から満月が見える。二人が出会ってから、九回目の事だった。
 そして、あれから一週間の時が過ぎた。窓の外の景色は、まだ何も世界を知らないキャンバスの様に白かった。

「……ねぇ……おきて」

 ベッドの上で、レイネが寝ているフィリオの上に乗り、彼を揺らす。

「……ん……お……はよ……起きるの……早いね……レイネ」

「ゆき……いっぱい」

 彼女が窓の外を指差す。

「あぁ、夜の間に積もったんだろう。どうだ? 雪遊びしてみるか?」

「なにそれ」

 レイネは首を傾げる。

「その名の通り、雪で遊ぶのさ」

「きになる」

 目を輝かせるレイネ。

「よし! そうと決まれば、思い立ったらすぐ……」

 フィリオはレイネに乗られたままレイネに言った。

「……こうどう」

 呟くレイネ。

「そう! さっすがレイネさん。そしたら……あ、まず僕から降りてもらっていい?」

 それから二人は一緒に朝食を食べ、ペントにご飯を与えた。その後は着替え。レイネは、あの時フィリオが街中を回ってやっとの事で手に入れたクロークを身にまとい、フィリオも黒いロングコートを着て、準備は完了した。

「よし、じゃあ行こうか、白銀の世界へ!」

 フィリオが勢いよくドアを開けると、弱く冷たい風が二人を包んだ。
 しんしんと降る雪を、二人は静かに眺める。

「……きれい」

「あぁ。綺麗だ」

 レイネは身体を屈ませて、両手にありったけの降り積もった雪を抱えた。

「みて、しろくて、ふわふわしてる」

「この星に来てからは、雪は初めて見るもんな」

「つきには、こんなのなかった。だから、たのしい」

 そしてレイネは、抱えた純白の雪を、思い切り手を広げて空へ向かい飛ばした。道に雪がひらひらと舞う。
 レイネはずっと笑っていた。初めて見る世界に胸を躍らせているのだろう。フィリオは彼女のそんな姿を見て、和やかな気持ちで心が一杯になった。
 風が強くなってきた。

「て、つめたい」
 
 レイネは紅くなった手をフィリオに差し出した。
 
「手、握るか」

「うん……」

 フィリオの左手とレイネの右手がしっかりと密着した。

「さむい……けど、あったかい」

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51 :零
2024/03/18(月) 16:23:02

【#24 Time】

 時間ってのは無情なもので、過ぎ去って欲しくないといくら願っても、律儀に流れていく。そんな時間に僕らは身を委ねて、レイネと二人の時間を沢山過ごした。
 まず、二人で絵の具を作った。僕はいつも朝散歩に出かけるけど、レイネは流石に寒いんだと言ってこの頃は外出しようとしない。だから、僕は家で簡単にできる遊びを考えた。絵の具を作るってのは簡単な事じゃない。顔料、水、油なんかを使って、ペインティングナイフで混ぜたり掬ったりする。結構地味な作業だけど、僕たちは数々の材料が一つに力を合わせて絵の具になっていく工程をまじまじと見て楽しんだ。
 初春月には僕の誕生日があった。母さんの店で家族揃ってお祝いしてくれた。僕にとってとても素敵な思い出になった。そういえば、レイネの誕生日っていつなんだろう? そう思った僕は、彼女にそう問いかけた。分からないと答え寂しそうにする彼女の姿を見て、僕は残された時間で、ちょっと早かったり遅かったりしてもいいから、レイネの誕生日を祝ってやりたいと思った。
 それから僕達は、春になったらやりたい事を考えた。またレイネと二人で散歩ができる最高の日々を想像して、紙と羽の筆で計画を練った。そこで一つ気づいた事があった。レイネは月の言語は読めるけど、地球の言語は読めない。レイネはもうすぐ月に帰っちゃうけど、僕はせっかくレイネがこの星に来たんだから、文字一つ一つくらいは学んでおいた方がいつもの散歩道もより楽しくなるだろうと思って、春になったらエリアスの図書館へ出かけようと考えた。計画を練っている間、僕は胸の高鳴りを抑えきれない程ワクワクしていた。でもそれと同時に、花瓶にさしておいた花が日を追うごとに萎れていく様な、そんな寂しさを覚えた。
 二人の時間を過ごした僕たちを照らす月は、やがて欠けて見えなくなった。

「きょうはなんだかさみしい」

 寝室の窓を開けて、レイネがボソッと呟いた。外は漆黒の闇。ランプを付けなければ、様子は何も分からない程に暗かった。

「どうした、レイネ。大丈夫。僕がいつも一緒にいるから、暗闇だって怖くはない。照らしてくれるものが無くても、僕が君の心を照らすよ」

 ホー、ホーとどこかから鳴き声が聞こえる。

「このこえ、たしか、ふくろう」

「そ。フクロウは夜に起きる。僕らとは反対さ。こんな暗い世界を見て生きてるなんて、面白いよな」

「わたし、きょうはねたくない、きょうだけ、わたしはふくろうとおなじになりたい」

 レイネが僕の方を振り返って言った。

「どうして?」

 僕が訊くと、レイネはこう答えた。

「わたし、もっとずっとここにいたい。ねたら、すぐにじかんがながれちゃうから。すこしでもながく、ここにいたい」

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52 :零
2024/03/18(月) 16:23:36

 僕は言葉を失った。

「だから、もうすこしだけ、おきててもいいよね」

「……あぁ、もう少しだけ、この空を見ていよう。あ、あそこに星が見えるよ、レイネ」

「……ちいさい」

「僕らから見たらそう見えるけど、本当は僕らが住んでいるこの星よりもよりも、ずっとずっと大きいんだって、昔、エリアスは僕にそう教えてくれた。そして、月が見えなくて星が輝く今日みたいな空を、星月夜って言うんだってさ」

 あれから、更に時が流れた。月はその姿を見せたり見せなかったりしながら、まるでこの世の全てを知っているかの様に、優しく僕達を見守っていた。
 雪は溶け、鳥がさえずり、空が青く澄んでいく。

「ほら、これ菜の花が咲いてる。もう春だね」

 僕は、散歩がてらルミンのパン屋に向かう途中菜の花を見つけた。レイネは初めて見る様だ。

「なのはな?」

 興味深く菜の花をしゃがんで見つめるレイネ。

「あぁ。綺麗だろ? もうすぐ桜も咲く頃だな」

「さくら?」

 レイネがそのままの姿勢で僕の方を振り向いて言う。

「桃色の花だよ。菜の花とは違って木に咲くんだ。今度図書館に言って調べてみようか」

「でも……わたし、じ、よめない」

「それでいい。僕が教えるよ。人は誰しも、最初は知らない状態から始まる。だから学ぶんだ。少しでも新しい知識を得られたら、それは素晴らしい事だよ」

「そう……なら、やってみる」

 僕らの散歩は寄り道の積み重ねだ。寄り道してまた寄り道して、いろんなものを発見して。それが楽しい。
 かくして僕らはいつものルミンのパン屋へ着いた。
 彼女を含め、街のみんなには「レイネはもうすぐ本当の家族の所へ引き取られる」と説明しておいてある。

「はーい。毎度ありー。相変わらずレイネちゃんの美貌が私の心を刺すわ……あぁ……笑顔が眩しい……ずっと見ていたい……」

 いつものルミン。

「レイネ、いいか。くれぐれも怪しいお姉さんに捕まるんじゃないぞ」

「はーっ? だーれが怪しいお姉さんですって?」

 そう言ってカウンターに身を乗り出す彼女。いつものルミンだ。
 
「はははっ。冗談ですよルミンさん」

「はぁ……馬鹿フィリオ」

 彼女はため息をよく吐く。今もそうだ。

「なぁ……ルミン」

「ん?」

「僕、レイネと別れたら、旅をしようと思うんだ。広い広いこの世界を、もっと描きたいと思ったから」

「それって、ランテ国に行った時みたいな?」

「いや、もっと長い旅になると思う。何年もかけて、世界中を回るんだ」

 そう。新しい僕の夢。レイネと触れ合い、色んな人に出会い、たどり着いた夢。

「それってなんか……フィリオのお父さんに似てるわね」

「確かにそうだな」
 
「結局、考える事は親子一緒かー。ま、フィリオの言う事なら私は止めないわよ。ちょっとだけ、寂しいけどね」

 ルミンが言った。何処か侘しい目をして。

「それじゃ、今日はこれで帰るよ」

「うん。今日もありがとね」

「あぁ」

 僕がそう言ってドアを開けた瞬間、ルミンが僕らを呼び止めた。

「あ! ちょっと待って。最後に一つだけ」

「何?」

「私の作ったパン……いっぱい食べてから旅に出なさいよ」

 僕は微笑んでいった。

「分かってる」

 そして僕らは店を出た。
 ふと僕らを撫でる風が冷たい。
 妙な胸騒ぎがする。
 でも不思議と心地良い。
 そんな昼下がり。
 レイネが月へ帰るまで、あと五日。

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53 :零
2024/03/18(月) 21:54:22

【#25 Truth】

 ガチャリ……と、相変わらず重いルーンプレナ図書館のドアを開ける。今日はレイネと二人で調べ物をしに来た。

「よ……い……しょ……」

 ドアを閉めると、バタン……と、大きな音が立った。エリアスはこの建て付けの悪いドアの事を「歴史の重みの現れ」と表現している。どうやら彼女はこの建て付けを気に入っている様で、直す気は無いようだ。確かにこの図書室が見てきたもの、歩んできた時間をひしひしと感じる風情あるドアだが、僕は非力な腕の前にはそんなものはどうでもいいとさえ思えてくる。

「おーい! エリアスー! 今度はどこで寝てるんだー?」

 僕は精一杯の大声を図書館に響かせた。僕は大きな声を出すのも苦手だ。小さい頃、ルミン、サニー、そして僕が、船に乗ってシャンクさんの釣りを手伝った時があったが、シャンクさんに「お前の声は波の音に負けてて聞こえない」と言われ小馬鹿にされた事をよく覚えている。

「おーい! はぁ……はぁ……もう疲れた」

 何度も呼び続けたが一向に返事は無い。エリアスも大きな声を出せる人ではないが、静かな図書館では小さな音もよく響く。僕の声は届く筈だし、あちらの声も聞こえる筈だ。
 どこを探しても見つからない。と思ったその時、二階にある、エリアスが「守るべき部屋」と呼んだあの部屋の扉の鍵が開いている事に気が付いた。おかしい。エリアスがこんな初歩的なミスを犯す筈がない。僕は思い切って扉を開けようと取っ手を掴んだ。するとレイネが言った。

「……わたし、ちょっとこわい」

 僕の服の裾を掴むレイネ。ふと目線を移すと、僕の取っ手を掴んだ手が震えている事に気付いた。レイネがこの星の人間ではないと知った時、僕は怖かった。きっとレイネも同じ思いだったのだろう。僕らにとってはこれがトラウマ、と言うやつなのだろうか。でも、僕らなら絶対大丈夫。現実を受け入れた先に希望がある。そう思えたから。

「大丈夫。僕の心はもう前を向いているから。大丈夫」

「……うん。わかった。じゃあ、いっしょにあけよ」

「うん」

 二人の手で扉を開けると、ギィ……と古めかしい音を立ててそれは開いた。すると、見覚えのある部屋と見覚えのある人物が僕の視界を埋めた。

「……」

「あ」

 エリアスが床に横たわって寝ているのを見つけて、僕は思わず呟いた。

「おーい、エリアスー」

 僕はエリアスをゆすって声をかけた。このくだりは僕が図書館に来たら必ずやる事の一つとなってしまっている。

「……ん……えーと……その本なら……あ! すみません……寝てしまっていました。あらフィリオさん。えっと、お元気ですか? わたくしはもう、あの時からずっと心配で……」

 切なそうな口調で語る彼女。

「その事は、謝らせてくれ。すまなかった。僕はもう大丈夫だよ」

「そうですか。なら、良かったです。心の健康も大切ですから」

 彼女はたまに医者みたいな事を言ってみたりする。昔彼女は法律にハマっていた時期があって、その時はえらく規律に厳しかった。彼女の知識欲は本当に底が知れない。

「あら、今回もレイネさんと一緒なのですね。あ! それならちょうど良かったです。今、レイネさんがおっしゃっていた月とこの星の歴史について調べていたんです」

「そうか。何か分かった事はあるのか?」

「えっとですね……」

 そしてエリアスは独り言をぶつぶつ言いながら棚にある木板を手に取った。

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54 :零
2024/03/18(月) 21:54:33

「まず、どうやらこの国の言語と月の言語は、文字の形は全く違うものの、読みが完全に一致している事が分かりました。レイネさんがあの時仰っていた言語が、我々の普段喋る言葉と同じだったので、大体検討はついていたのですが」

「なるほどなぁ」

 僕は顎に手を当てて言った。

「後、レイネさんが言った言葉を元に木板に書かれた言語の解読を試みた結果、そのほとんどの翻訳に成功しました」

「お前の頭の中はどうなってんだ」

 エリアスはたまに信じがたい程の頭の良さを発揮する事がある。

「この二枚の木板に書かれているのは月人と地球人の関係とその歴史。『月光記』と言う題名です。全て読み終えましたが、レイネさんが仰っていた通り、この星に住む我々は、元々月で暮らしていた様です。そしてここからは憶測なのですが、レイネさんは月から来たと仰っていました。それが本当なら、この文字は月で使われていた文字である可能性が高いです」

 淡々と木板に書かれた内容を報告するエリアス。

「うーん……やっぱり信じがたい話だな」

「わたくしも、初めは信じられませんでした。ですが、お父様含めたわたくしの先祖が代々守り抜いてきた真実ですし、レイネさんがこうして今ここにいる事が、何よりの裏付けなのだと思います」

「そうか……確かにな」

「今までの研究で分かった事は多くありましたが、それに伴って謎が多く残る結果となりました。追放された我々の先祖は、どのようにして翼を奪われ、記憶を消されたのか。なぜ記憶が消えた筈のこの星の人類は、これらの木板を残す事が出来たのか。歴史学は、こういう残された謎を追い求める過程が面白いんです」

「なるほどね……また分かった事があれば教えてくれ。今度暇があったら寄るからさ」

 そう言った拍子に、僕は気付いた。

「そうだ、そういえば、僕とレイネがどうやって出会ったのかって話、言ってなかったよな。君の研究に少しでも役立てばいいんだけど……」

「言われてみればそうですね。真実ならどんな情報でも構いません。一体、どこでどのようにして出会ったのですか?」

 エリアスは興味深くこちらを見て言った。

「それが不思議なんだけどさ、夜中に僕が絵を描こうと浜辺に行った時に突然海から光が放たれて、消えたと思ったらボロボロの服を着た少女が倒れていたんだ。それがレイネさ」

 新たな情報を得たエリアスがどこか嬉しそうに天井を見上げながら言う。

「なるほど……それは確かに不思議な事象ですね。まだまだ研究の甲斐がありそうです。今度是非いらしてください。少しでもお役に立てれば嬉しい限りです」

 エリアスは持っていた木板を棚に戻して、こちらに向かって微笑んだ。

「話は変わるんですが、先程からレイネさんの姿が見えませんが、どうしたのでしょう……?」

 彼女の言葉にハッとする僕。ふと横を見るとレイネの姿は確かにない。エリアスとの会話に夢中になっている内に見失ってしまった。なんたる不覚だろうか。

「ほ、本当だ! どこ行ったんだろう……よし……」

 焦った僕はこの部屋を飛び出し、ありったけの大声でレイネを呼んだ。

「レイネー! いるなら返事してくれー!」

「と、図書館ではお静かに!」

 その声に反応して振り向くと、エリアスがむっと頬を膨らませていた。

「あ……ごめんなさい……」

 さっきの大声が反射して、自分に返ってくる。辺りが無音になった時、図書館を小走りで走る足音がした。間違いないだろう。レイネだ。
 その音はやがて大きくなり、やがて可愛らしい純白のワンピースをフワフワとなびかせながらこちらに近づいてくる少女の姿が見えた。何やら手には一冊の本を抱えている。そうだ。今日はレイネに文字を教えてあげようとしてここへ来た。彼女は本来の目的を忘れていなかった様だ。

「……」

 レイネは僕の目の前まで来ると、何も言わずに抱えていた本を開いて、ある単語を指差した。レイネが持って来たのは分厚い植物図鑑だった。見慣れた草花の絵が描かれているのを見て興味を持ったのだろう。

「これ、なんてよむの?」

 僕はすかさず答えた。

「これはね、『桜』って読むんだよ」

「さくら……さくら……」

「そう。これで一つ、読める言葉が増えたな」

「うん」

 レイネの成長を噛み締めるように、僕は彼女の頭を撫でた。レイネが月へ帰るまで、後四日。

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55 :零
2024/03/18(月) 21:55:20

【#26 You】

「きょうはあったかいね」

 レイネが空を見上げて呟く。僕は思わずその手を優しく握った。

「そうだな。春の陽気ってやつだ」

 暖かい。そして、温かい。
 今日は森へ来ている。一年近く前にここへはレイネと一緒に来た事があるけど、今日は前とは違う。

「ももいろ、たくさんあってとってもきれい」

 レイネがが刺した指の先には、桜が咲き誇っていた。この森に生えている樹木のほとんどは桜だ。淡い桃色の花が頭上を埋め尽くす。
 レイネと一緒に暮らして、いつもの様に散歩して、沢山の事を経験して。とっても刺激的で楽しい日々が一年続いたけど、彼女と出会ってから一度もやっていなかった事がいくつかある。今日はその内の一つをやってみようと思う。楽しい時間なんてあっという間なんだ。噛み締めて、充実させなきゃね。

「レイネ。今日は君に協力して欲しい事があるんだ」

 僕は二人で歩きながらレイネに言った。

「なに?」

 こちらへ振り向くレイネ。彼女の白いワンピースがふわりと踊る。

「今日は、君を絵に描いてみようと思うんだ。元々僕は普段風景画しか描かない。人間や羊、虫なんかもほとんど描いた事がない。動くものは描くのが難しくて、今まで敬遠してたんだ。だけど、そのままじゃもったいないって思ったんだ。動物だってこの世界の大事な一つの欠片なんだ。僕はあらゆる人々や動物達を含めたこの世界を描き続けて、絶え間なく動くこの世界に彼らが生きた証を残したい。そう思ったんだ」

「いきたあかし……」

「そう。君が確かにここにいたと言う歴史を残したい。そんな僕の夢に協力して欲しいんだ」

「わかった。わたしをかいてくれるの、とってもうれしい」

 レイネは快く僕のお願いを聞き入れてくれた。彼女が「うれしい」と言うと、不思議と僕も嬉しくなる。反対に、彼女が「さみしい」「かなしい」と言うと、僕まで気分が落ちる。でも、家族とはそう言うものなのだと思う。自分が感じた事を一緒に共有して支え合っていく。レイネと居ると様々な当たり前に気付いて実感する。
 あの時訪れた池までやってきた僕らは、目の前に広がったその景色の美しさに言葉が出なかった。
 そこには澄んだ青い池周りをぐるりと囲む様に大きな木があった。ただあの時とは違い、木に生えた新緑の葉は桃色の花に変化していた。
 なんて事ない日々の様に穏やかな風が花びらをちぎり、切り離されたそれは降下しながら舞い、池に落ちて水面に浮かぶ。
 父さんが生きていた頃、僕と父さんは二人でよくここの池に来た。絵の最高のモチーフだったからだ。移り変わる季節の中で、父さんはいくつもこの池の絵を描いた。隣で父さんの手伝いをしていた僕は、父さんの筆先を眺めながら、この場所が歩んできた時間がはっきりと絵と言う形で残されていくのを感じた。

「相変わらず良い景色だろ。僕の父さんも好きだった景色さ」

「わたしもすきなけしき」

「うん。僕も好きだ」

 それから僕らは絵を描く準備をした。キャンバスやらイーゼルやらは結構持って行くのが大変だ。でも、レイネと一緒なら大変さが半分になる。誰かがいるってありがたい事だと感じる瞬間だ。

「そういえば、わたしはいまからどうすればいいの?」
 
「それなんだが……レイネ。この辺で好きに遊んでてくれるか? 勝手気ままな君の姿をこのキャンバスに収めておきたい」

「あそんでて……? うごいてていいの?」

「あぁ。全体を目でしっかり見て、好きだと思った瞬間を描く。人間の体の構造は父さんに習ったから、我ながら自信はあるんだ」

 ちょっと得意げに言ってしまったが、僕の自信は確かだ。

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56 :零
2024/03/18(月) 21:55:34

「わかった」

 それからレイネは自由に遊んだ。鳥と戯れたり、桜の枝を持って近づいてみたり、切り株の上に座ったりした。でも僕はピンとくる様な良い情景がまだ見えずにいた。「うーん」と唸りながらひたすらこの世界とにらめっこをして、しばらく時間が過ぎた。

「だいじょうぶ? こわいかおしてるよ?」

 ハッと気がつくと、レイネが僕の顔を覗き込んでいた。

「あ、あぁ。大丈夫だ。レイネ、疲れてない?」

「だいじょうぶ。たのしいからまだまだへいき」

 彼女は僕の言葉に笑顔で返した。

「良かった。まだもうちょっと時間かかりそうだから、なんか変なお願いだけど、もうちょっとだけ遊んでてくれるかな? 飽きちゃったなら無理しなくていいんだけど」

「まだあそびたい。まだあそんでいたい。じぶんがこのもりにつつまれているかんじ、すきだから」

 レイネはそう言うと、直ぐに駆けていった。僕は彼女の言葉を噛み締めた。僕は彼女の静かに輝く様な感性が好きだ。
 緑色の美しい羽を持った小鳥が僕の背と同じくらいの高さで背後から飛んで来た。その鳥はレイネの側をくるりと一周して、とても高い所にある桜の木の枝に止まった。するとレイネがつま先で立って、その鳥をなんとか見ようとしたその時だった。

「うん。いい感じ」

 ピンとくる、とはまさにこの事だった。まるで頭の中に太陽が昇って来た様な、そんな心地良さを覚えた。

「よし」

 風が吹いて、小さな花びらがいくつも散る。広がる視界に桃色が輝く。
 脳裏に焼き付くその景色に、心が動く確かなものを感じた。
 僕は筆を手に取り、くるくると回してパシっと掴んだ。
 そして僕は言った。
 
「レイネ、君のおかげでようやくいい絵が描けそうだよ」

 僕の言葉に反応してレイネは振り向いて言う。

「それはよかった……けど、まだもうちょっとだけ、あそんでいたい」

 レイネの無邪気な笑顔が見られるのも、後三日。

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57 :零
2024/03/18(月) 22:07:12

【#27 Growth】

 サニーと出会ったのは、彼がちょうど釣りからこの街の小さな漁港へ戻ってきた時のことだった。
 彼は散歩中の僕とレイネを見るやいなや「久しぶり」と言ってにこやかに挨拶をした。
 僕と年が変わらないサニーに向かってこんな感想を抱くのはなんだけど、しばらく見ないうちに、彼は見違える程に大人らしくなっていた。心なしか背も伸びたような気がする。
 今思えば、双子の弟として生まれたというだけで、僕達は彼を執拗に可愛がってきた。もし僕がサニーの立場だったら「子供扱いするな」とみんなに反発したかもしれない。
 
「今日は何が釣れたんだ?」
 
 サニーに訊いた。
 
「色々沢山だよ」
 
「抽象的すぎるなぁ」
 
「さかな」
 
「あれ? そういやシャンクさんは今日いないのか?」
 
「家で寝てる」
 
「たべたい」
 
「寝てる? あー、本当にあの人は怠惰だね」
 
「そのお陰で、僕はようやく独り立ちできそうだよ。今まで泣きべそかいてばっかだったから、背筋伸ばさなくちゃ」
 
 彼は言った。言った通り背筋を伸ばして凛と。
 
「お前、やっぱり変わったよ」
 
「さかなたべたい」
 
 僕らの会話に混じってレイネがしきりにそう言うので、今日の晩ご飯は焼き魚に決めた。
 サニーは午後からも仕事で忙しいので、彼とはその場で別れた。
 
「サニーの成長っぷりにはびっくりだよ」
 
「せいちょう」
 
「レイネ、僕は今まで、ルーンプレナが当たり前にあって、そこに住む人々が当たり前にいて、その中で暮らすのが当たり前だって、心のどっかでそう自分に言い聞かせて安心しようとしていたんだ。でもやっぱりそれは違っていて。人とはいずれ別れが来るし、別れなくても一人一人は変わり続けていく。サニーを見て、それが現実なんだって思った」
 
「せいちょうはつらいこと?」
 
「成長はとってもいいことさ。でも、少しだけ切ない。今の君を見てもそう」
 
「せつない」
 
 歩きながらこうやって話すと、自分の気持ちを整理できる気がして好きだ。昔から僕は思い悩む性格だったから尚更だ。
 
「フィリオ! 会いたかった!」
 
 大浴場の前辺りを通り過ぎた時、突然野太い声がどこからともなく聞こえた。
 
「ん?」
 
 はっとなって後ろを振り返ると、タウルさんが驚いたような喜んだような絶妙な顔をして立っていた。
 
「タウルさん! お久しぶりです!」

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58 :零
2024/03/18(月) 22:07:23

 タウルさんは、人を包み込むような包容力がある。物理的にもそうだけど、彼は人の心を癒してくれる、そんな気がする。
 それにしても驚いた。大体一年くらいの期間が空いたから、まずはお互いの近況を報告しあった。流石にレイネが月の人間だったなんて言えないけど、レイネともうすぐ別れなくちゃいけないことを話した。
 タウルさんも色々なことを話してくれた。自分の背丈よりも大きい動物に遭遇してなんとか仕留めた話なんかは、彼の話のうまさも相まって、思わず身震いするほどだった。
 会話の熱気も冷めた頃、今日食べる晩ご飯の話題になった。
 
「晩ご飯は焼き魚にする予定です。レイネが食べたがってるので」
 
「焼き魚か……そりゃいい。俺はまだ決まってなくてな。そこで提案なんだが、今日お前の家で一緒に夕飯食べないか? 俺は料理が大得意だって何度も言っただろう。まだふるまったことがなかったから、いい機会だと思うんだが……」

 それめっちゃいい提案! と思った。僕らは迷わず賛成した。そんな訳で、タウルさんを初めて家に入れることになった。
 いつものお店で材料を買った。タウルさんはきっと沢山食べるだろうなとか、この魚はサニーが獲ってきたんだろうなとか思いながら、みんなで料理をするというごく小さなイベントにワクワクしていた。
 まさに巨人と言った所だろう。タウルさんはドアを開け、かがんで中に入った。彼の握ったドアノブは小さく見えた。もし誰かが「ドアを開ける瞬間の絵を描こう」と思って、彼の手とドアノブのようなバランスで構図を決めたら、僕は「縮尺がおかしい」と文句をつけてしまうかもしれない。それくらい、この図には現実味が無い。
 不思議な彼だが、料理の腕は一流だと自負している。階段を上がる彼の足元から響くギシギシという木の悲鳴を聞きながら二階に上がり、唸る腹の虫を抑えながら僕らはキッチンについた。
 
「んー。やっぱりこの包丁は俺には小さすぎるな。すまんが、この野菜は二人に任せる」

 家で唯一の包丁は、彼には扱えなかったようだ。流石。
 
「レイネ、包丁で野菜を切る簡単な仕事なんだけど、やってみるか?」

「やってみたい」

 思い切った提案だと感じてはいるけど、過保護すぎるのはよくない。どうせ別れるなら、少しでも成長したレイネと別れたいんだ。

「その様子だと、レイネは包丁使ったことないってことだな。それじゃ、基本のアドバイスなんだが、利き手で包丁を持って、逆の手は丸める」

 タウルさんがやって見せながら説明を始めた。

「丸めた手で野菜を抑えながら、真っ直ぐ切る。切り方にもよるが、今日の所は、今言ったことをやれば問題ない」

「やってみる」

「レイネ、やる前に僕からもアドバイス。その野菜は柔らかいから、あんまり力を込めて押す必要はない。すっと刃を動かすんだ」

「わかった」

 ストン、ストンと、丁寧に野菜を切っていくレイネ。成長、それはいいこと。だけど、どんどんやれる事が増えていくにつれて、見守る側はどことなく、切なさを覚える。
 僕の肩くらいにあったレイネの頭は、今や僕の顎くらいにまで迫ってきている。
 別れというのは、そういう事なのかもしれない。
 レイネが月に帰るまで、後二日。

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59 :零
2024/03/18(月) 22:09:34

【#28 Rose】

 そういえば、レイネが一年間僕と暮らす中で、レイネに絵を一度も描かせてこなかった事を思い出した。いずれやらせようかなと頭の中で考えた時はあったけど、考えたっきりそれを実行に移す事はなかった。ここで思い出しておいて本当に良かった。もう二度と会えなくなるから。
 ということで、僕はレイネに尋ねた。「絵を描くことに興味はないか」と。するとレイネは「かきたいってずっとおもってたけど、わたしはかいちゃいけないようなきがしてた」なんてことを言った。絵は自由なもので、誰がどんな絵を描いてもいいんだと思っていたけど、どうやら話を聞く限り、彼女は僕の絵に対するこだわりを強く感じるあまりに、絵描くのは難易度が高いものだと思い込んでしまっていた様だ。これは今まで僕が犯してきたやらかしの中で一番大きいと言えるかもしれない。なにせ、一年間絵の素晴らしさを背中で教えてきたはずが、それが誤解を生んでしまう結果になったのだから。
 アトリエに二人、僕はレイネに相棒とも言える筆を渡して言った。彼女は少し緊張している様子だった。
 
「レイネ、僕はどうやら誤解を生んでしまっていたみたいなんだけど、絵っていうのは難しく考えなくていい。ただ自分の描きたいものを意のままに描けば、それでいいんだ。結局それが一番楽しくて、一番人の心を動かす。芸術ってのはそんなもんさ」

「わたし、なにがかきたいのかわからない」

 筆を見つめて固まるレイネ。

「そうだな、今まで自分が見てきたもの、感じてきたものを思い出してごらん。その中で印象に残った何かが、自分の心と共鳴する感じがするんだ」

「きょうめい」

 今、彼女の頭の中はどうなっているのだろう。こうアドバイスしようかな。「心の中に夜空を浮かべてみろ。頭上を覆い尽くす夜空の中に、輝く星がいくつもある。その中で一際輝く一番星。それが描きたいものだ」なんて、父さんみたいだな。

「ばら」

 レイネは呟いた。溢れた言葉が地面に落ちないようにそっと僕はそれを掬い上げる。

「薔薇か。なるほどな。確か出会って一か月くらいした時に、僕が君に赤い薔薇の絵をあげた事があったよな。ま、あげたと言っても、いつもペントの籠の傍に置いてあるんだけどね」

「ばらをかきたい」

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60 :零
2024/03/18(月) 22:09:47

 彼女が薔薇を描きたいと言い出したのは実に素晴らしい事だ。だけど一つだけ問題がある。それは、今の時期は薔薇の季節ではないという事。僕はレイネにこの問題を伝え、どうしたものかと考えたが、答えは彼女が素早く出してくれた。

「むかしくれたばらのえ、まねしてみる」

 僕は「その手があったか」と言いかけたが、自分の頭の固さを露呈してしまうので言うのはやめた。レイネは揚げ足を取るような人じゃないけど、妙に恥ずかしかったし。

「いいアイディアだ。取ってくるから、レイネはそのエプロン付けて待ってて」

 僕がレイネくらいの身長の時に使っていたベージュ色のエプロンは、元がベージュ色だとは分からない程にボロボロになっていたが、まだ使えるだろうと踏んで、昨晩必死に手入れした。
 薔薇の絵を持ってアトリエへ戻ると、彼女は思った以上にエプロンを着こなしていた。どうやら僕に似たらしい。

「このえ、すき」

「照れるな」

「ほんとだもん」

 さて、何から教えたらいいかな。好きに描いたらいいんだとは言ったものの、いきなり薔薇を描こうなんて流石に無茶だったかもしれない。ひとまず、父さんに教わったのと同じ様にやってみるか。

「レイネ、まずはね……」

 人に何かを教えるのってすごく難しいことなんだって実感した。気が付けば、「あの」とか「えっと」とか、そんな言葉を多用していた。
 レイネが僕の絵を描いている姿を見て色々吸収していたのかもしれないが、彼女の成長速度は驚くほど速かった。
 レイネは生まれて初めて絵を描くなんて言っていたけど、本当は記憶がないだけで、あっちでも絵を描いていたんじゃないか……なんて、それはないかな。
 そういえば、恐らく……いや間違いなく、レイネは僕の夢の中に何度も出てきた子だろう。彼女がなぜ僕の夢の中に出てきたのか、改めて訊いてみようと思う。昔こそ彼女は何を言っても記憶がなくて答えられなかったけど、今だったら答えられるかもしれないから。

「レイネ」

「なに?」

「やっぱりこれだけは訊きたいと思ってたんだけど、レイネはなんで、僕の夢の中に出てきたの?」

 レイネは黙り込んで薔薇の絵を描き進めた。そして、その茎に纏った棘を描き終えた後、レイネは言った。

「こたえたくない。はずかしい」

 レイネがなぜ恥ずかしいなんて思ったのか、それは、彼女が絵を描き終えた後も、結局分からなかった。
 描き終わったその赤い赤い薔薇は、レイネの純粋さが溢れ出している様だった。

「すごいや、レイネ。初めてとは思えないよ」

 僕はレイネを抱きしめた。後何回、こうやって触れていられるだろう。

「ちょっとはずかしい」

「君は急に恥ずかしがりになったな」

 今日のレイネを見ていると、昔の僕みたいで、自分まで恥ずかしい気持ちになってしまった。
 レイネは、僕の思いを、優しく抱きしめ返した。
 彼女が描いた薔薇の絵は、僕が彼女にあげた薔薇の絵と並べて、二階の壁に飾ることにした。レイネが「くれたえといっしょに、ずっとここにかざってほしい」と言ったからだ。僕は「手放してもいいの?」と僕は言った。すると彼女は「ずっといっしょに、ここにいたいから」と笑った。
 沢山の思い出が詰まった日記みたいなこの家は、僕が旅に出た後は母さんが管理することになっている。いつかこの街に帰って来た時、この家に「ただいま」と言いたいから。

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