「ねえ、看板もきれいにしたら喜んでくださるかしら…?」
店主のお気に召すように、何かできることは?
そう問う声に、今度は僕が濡れた黒髪を拭いながら少しだけ考え込んだ。
字が、すごく綺麗だな、って。繊細で、そっと指でなぞってみたくなる字だと思ったことがあるんだ。見たことはないけど、絵だって画家も顔負けに違いない。そんな彼女が…もしこの店のメニュー表を作ってみたとしたら?いいね、我ながら名案!
看板のことまで気に掛けるのはやる気に満ち溢れてる証拠だね。いつもゆったりとした言葉の調子がほんの少し早くなって、僕には、それが何よりかわいかった。
こんなわたしでも役に立つことが…と、嬉しそうに口元を隠すからさ。彼女自身すら知らない魅力を僕ばかりが知っていることに、僕の唇も、いっそ隠してしまった方がいいくらいに緩んでた。
いいよ、君は知らないでいて。まだまだ、僕だけのものにしておくよ。
かの麗しき末娘が書いた『しばらく帰りません』の手紙が、どれだけの騒ぎを引き起こすか。賢い彼女に分からないわけがない。
どうなっても構わないと心を決めているのか、ミスター・カールがゴシップを隠し通すと分かっているのか…その手紙を出す提案に、彼女はあっさり頷いた。喜びに輝く目は鏡越しとは思えないほど眩しい。
さあ、この家出、どう転がっていくかな?せっかくだ、二人でおもしろ可笑しく楽しもう!
しばらく酒場の二階に住み込ませてもらうのは、あちらも商売、代価を払えば何の問題もないとして。もうひとつの交渉…ウェイトレスとして働く契約交渉はどうなるだろう。心配は全くしてないけど、彼女がどう切り出すかは気になるところだね。
それはそうと、タオルに髪を挟んで優しく叩かれると、心地良いリズムの音が耳元で聞こえて……なるほど、こんなに気持ち良いものなんだ。おしゃべりしていなければ、うっかり眠ってしまったかも…。
「──む、無理かしら…?」
部屋の片隅にある小さなドレッサーの前、濡れた僕の髪を優しく拭いながら、夢を語る少女のような声がふと揺れた。
貴族の戯れじゃない、彼女はどこまでも本気だ。「いざとなったらわたしも働ける」と、あれこれと話す声があまりにもまっすぐだったから、君なら何だってできるよと無責任に言いそうになったけど。無理なことなんてないように、僕が傍で支えたいって……そう思ったのは、やっぱり本当だ。
これから先、あの屋敷を、高貴な苗字を彼女がほんとうに捨てることになっても、僕だけはしぶとく傍に残るつもりさ。
内職の例え話をしていた時、ふと思ったことがひとつある。裁縫……できる、のか?聞くべきか、聞かざるべきか。いや、いや!いつか明かされるその日を楽しみにしていよう。