流行りの小説の真似事をして笑い合い、何日も曇っていた夜空に星を見つけて一緒に空を仰ぐ相手。「寒い」とこぼしたら、言葉もなくただ腕をさすって暖めてくれる人。
屋敷を出て、黒い馬、黒いキャビンの馬車に乗り込む時、ふと…無性に。誰かに思い出話として話すまでもない、そんな些細なやり取りが、何より幸せなことに思えたんだ。
彼女はすっかりよく笑うようになった。あんなふうに笑う『クリスティーヌ』だったら、オペラ座の怪人は彼女を攫ったまま二度と戻ってこない!
会話に重なる蹄と車輪の音、ゆらゆらと揺れる体、夜に追いつかれた馬車の薄暗さ。どれも邪魔なもののはずなのに、それは明るい場所よりずっと輝いていたよ。彼女の可笑しそうに笑う声や笑顔は、その瞬間、間違いなく僕だけのものだったから。
ただあのことは僕には笑いごとじゃなかった。ぼくは、笑いごとじゃ、なかった。……………何もつけて、ない……、か…。
名も知らぬ霊の演奏は確かに感動的だった。でも、好きだと思えたのはそれより前の…初夏の午後を思わせる柔らかな歌声と、まるで女性の温もりのような、優しく愛情深いピアノの音だ。
「一階のサロンでお待ちしてますわ。」
あなたを待っている。何てことのない言葉に胸を甘く擽られながら覗いた部屋で、彼女は『愛の夢』を弾いていた。そうだ、歌っていたのは何だろう?歌というより、詩をメロディに乗せているふうだった気がするな。
ピアノの弾き方を教えてほしいと言ったのは、もう一度あの音が聴きたかったから。それとね、ちょっと甘えてみたくなったからさ。好きな女の子に構ってほしくて、苦手なものを自分から打ち明ける男の子みたいに。
手に手を乗せて弾くものだから軽やかとは言いがたかったけど、あの深く溶け合う音色と、隣に座る彼女の声や息遣いが、僕が見た初めての愛の夢だ。
彼女のオペラに出逢うまで、僕の知る音楽といえばたった二種類しかない漠然としたものだった。優れているか、そうでないか。
だから、彼女に降りてくる芸術家の霊たちはきっと天才と呼べるんだろうね。歌劇場の高い天井まで届く、繊細で艶のある歌声。嵐の日の雨みたいに、皮膚に深く食い込んでくるピアノの旋律。最高の境地もひとつじゃないって、この街で初めて感じたよ。
一階のサロンで聴いたのは、なす術なく音の層に襲われる演奏だ。たとえ指が折れても構わないと甲高く叫ぶような。
それが初めて間近に見た降霊だった。ピアノが好きなだけの霊だったと彼女は言うけど、その疲れきった顔とこちらへ力なく伸ばされた手を見たら、僕にはそうは思えなかった。……許せないと、そう思ってしまったんだ。
使い方次第の強い力と、か弱い身体。これが僕自身なら迷わず前者を選ぶのに。
メイクルームで見た、少し不安そうな顔が蘇った。ひとりで危険な真似や無茶はなさらないで、と。もしかしたら、あの表情と似ていたかもしれないな。肩に寄りかかる彼女の重みが消えること…今はもう、それが怖くなってしまった僕の顔は。