たとえば、図書室の壁一面の蔵書に浮かれて思わず小走りになる足。薄闇の中の銅像が人に見えたのか、一瞬弾んだ後にほっと安心して落ちる肩。後ろから抱きしめた僕の腕を抱えながら、じゃれ合うように小さく揺れる身体。
それから、ぎっしりと隙間なく並んだ背表紙を優しくなぞっていく細い指。眠れない夜に僕の顔が思い浮かんだと言って、その時読んでいた詩は秘密のまま、恥ずかしそうにそっとこちらを振り向いた顔。
屈託なく可愛らしいかと思えば、指の先にさえ清楚な色気を纏う。一分、二分、たった数分の間に一体どれだけ男心を擽られたんだ?
……数えようと思うな。諦めろよ。どうせ、気が遠くなるくらいなんだから。
月明かりってほんとうに青白いんだね。実際は違って、人の目にそう映っているだけらしいけど。
飛び込んだ図書室の中、ぼんやり月の光が差した黒髪を見て、ああ…今夜の月はこんな色なんだって、一瞬、その時の会話とは別のことを考えてた。普段は気にもしないのにね、我ながらおかしいよ!
打ち明けた首の焼き痕の話以外に、まだ伝えていないことがある。でも、今回みたいに耳を汚すかもとは思っても、拒絶を心配する気持ちは持ってないんだ。
僕が慎重すぎるほど遠回りに、彼女を「懐柔」しようとしてきたこれまでの時間は…、同時に僕がこの想いを深めて、彼女からの愛を信じるための時間だったんじゃないか。どんな秘密を打ち明けても微笑んでくれると、全く疑わないほどの愛を。
「あなたの過去も未来も、すべてが欲しい。」
ろうそくもなく、暖炉で暖められただけの薄暗い部屋で、そう囁いてくれるのが分かってた。イゾルデ、僕の愛はこんなに傲慢に育ったよ。
階段を上ってくる足音が聞こえて、ふたりで一番近くの部屋へ隠れた時。大冒険のように楽しそうに笑う彼女を見てさ、なんだか逃避行みたいだなんて、僕まで楽しくなってしまった。
このウィーンがストームに洗い流された後はどこに行こうか。パリ?それともロンドン?もっともっと遠い国でもいいな。ひとつの時代が消えても僕たちはまだ終われない。それなら、二人がより多く楽しめる場所がいいだろ?
彼女はあの令嬢を「とてもきれい」だって呟いたけど。僕にはシャンデリアの下で咲き誇る薔薇よりも、静かな庭園で朝露に濡れる薔薇の方が、ずっときれいで愛すべき花だよ。
扉の隙間から外を窺う僕の背中に、その薔薇は頬を寄せた。回された腕が蔓のように絡みついて、このまま、もう離れなければいいと思ったんだ。そう伝えるには言葉が追いつかなかったな。内緒でも何でもないんだけどね。
吹き抜けの大広間を二階から眺めながら、ふと思ったんだ。僕がいるべきはここじゃないって。
賑やかで、きらびやかな色と美しい演奏で溢れていて、誰一人素顔を見せない、ちょっとつつけば崩れ去ってしまう夢のような空間。まさしくこの僕にぴったり……の、はずなんだけどなぁ。
どうしようもない違和感を覚えながら思い出したのは、あの薄暗い邸宅で彼女がくれた言葉だ。「これからもずっと、あなたがお住いになる屋敷だと思って」…と。あの瞬間から、僕の中の何かが確かに変わった。
そうかと言って、あの屋敷に特別な思い入れがあるわけじゃない。多分僕は、彼女が微笑んでいてくれるならどこだって良いんだ。それがどんなに薄汚れたところでも…これまでのように、定住の地がなくてもね。
「…あ、あなたは、……マントヴァ公爵よ…!」
毒が盛られているのを知りながらグラスの中身を飲み干すって、きっとあんな気分なんだろうなあ。
不必要な騒ぎを起こさないように、赤い巻き毛のご令嬢と踊ることになったけど…誰でもいい、僕をばかやろうと呼んでくれ。僕は、何があってもそうすべきじゃなかった。
僕から逃げる背中を見るのも、腕を叩かれたのも、真っ向から責められたのも、ぜんぶぜんぶ初めてだった!赤ん坊の手で叩かれるよりずっと弱くて、悪口も全く言い慣れていないのが明らかだったけど、嫉妬に振り回される姿を前にして何ひとつうまくいかなかった。
泣きじゃくる彼女に上辺だけの言葉はひとつだって吐きたくない。そうすると僕の被った皮が剥がれて、差し出せるものは、情けない男の顔だけになってしまうんだ。
キスで宥められたのはどっちなんだろう?これ以上に情けない話があるのかって話だけどさ、やっぱり僕の気がして仕方ないんだよ、“ジルダ”。