「ふふ、仕方ないわ。こんなに酔っているんだもの… 、わたしが脱がせてあげないと…。」
グラスに注がれたワインも、唇から唇へ移されるそれも、どちらも味に変わりはないって頭では分かってるんだ。分かってるのに、頭以外のすべてが安物のワインを世界一の高級酒だと訴える。たとえばあの深みのない色は、彼女の赤い舌のように色めいて見えた。
いや…待てよ、もしかしたら錯覚じゃないのかも。ねえ、君っていつも、なにか蜜のようなものでも口に含んでいるのかい?目を閉じていても、吐息の甘い香りが分かったよ。
口移しのワインに酔ったから、一人で服も脱げない『赤ちゃん』になってしまっても仕方ない。
小さく笑った声、擦り寄せられる頬やおでこのキスに甘えてしまいたくて、それ以外はもうどうだって良かった。目の端が熱かったのは、アルコールのせいか、彼女の手が僕のシャツに触れるのを待ち侘びていたからか…どっちだったんだろう。
朝晩と顔を洗うとき、時偶石鹸が入って左目だけが痛む。こういう日常の些細なことの大体は、不思議だナァで終わっちまう。深く考えなくともまあ生きていけようってな。
ところが最近になって気付いた。俺が顔を洗った後に目を開ける時は、無意識に左瞼を薄める。じゃあ左目は無事なはずだと思うところだが、むしろ瞼が滑り台になって石鹸が目ん玉に流れ込むんだろう。
と、数年間密かに抱えていた謎が解けたわけだ。
せっせと日記を書くようになってから、それまでより物事を深く考えるようになった。物をようく見るようになった。
元々記録することが好きな質ではあるが、俺一人のつまらん日常を書いたところで何にもなるまい。もちろん、彼女のことばかり考えて彼女のことばかり書いてるからだ。
たった一歩踏み込むだけで見えるものがある。視界が開けて、気付くことがある。あなたにはそいつを教えてもらいましたよ。
先週、外を歩いていると近所の婆さんに「あれ水木さん、お肥んなすったねえ」と声を掛けられた。大して太っちゃいないが、婆さんにかかりゃなんでもお肥んなすったねえだからな。たぶん、生き生き血の通った顔色になったってことだろう。お幸せそうなお顔だねえ、だ。
今日は『不連続殺人事件』を読み進めるか。
わざと床に転がした二人分の靴みたいに、ぴったりと身を寄せ合っていたかった。抱きしめ合う腕を解いて身を起こしたら、触れ合えるところが少なくなってしまうだろ?たとえ手を握っても、頬を撫でても、ついさっきまでの熱が恋しくて、どうしようもなく寂しくなる気がしたんだ。
だから、彼女の太ももに左足が触れるように、彼女の膝に右足が触れるように。少しでも近付けるように座って……それから、彼女の肩に頭を預けた。
「さあ、お口を開けて。そぉ…っと、よ。」
赤ワインをグラスに注ぐ横顔が、月の光を浴びて、青白いウェディングベールを被っているみたいだった。
この世でもっとも綺麗なものが見られる特等席だ。ワインを飲ませてもらう時すら離れがたくて、あの肩や首筋に甘えていられるなら、だらしなく口の端からこぼれたって僕は構わなかったんだよ。
隠されたものは暴きたくなる、というのがお決まりだろうけど、人間に対して僕はあまりそう感じたことがない。特別な目的がない限りね。だから、自分でも驚くほかなかったわけさ。
白い手が恥ずかしそうに隠すもの。唇の奥でつくられた甘い声や熱く弾むような息を、全て暴いて自分のものにしたい。それは彼女が教えてくれた欲求だ。だから当然、彼女に満たしてもらわないとね。
抱き合いながら僕の髪に滑り込む指が好きだ。しがみつくように回される腕も。
そのまま腕の中に僕がすっかり隠れてしまったら……それは、しばらく暴かずにいておいてくれ。優しく髪を撫でながら、僕が満足するまで、ずっと。