ひとりで部屋を出て階段を降りる時、ふと彼女の声が聞こえた気がした。一番奥の部屋は階段から遠くて、なんの音も届くはずはないのに。
僕を追い掛けたそうにこちらへ向けられていた指先が、もしかしたら、その『声』を聞かせたのかもしれない。見送ってくれる彼女の腕をいっそ引き寄せたかった、僕の心残りが。
ふたり分の温かいミルクと、便せんと画材道具。それと、客室をしばらく借りる権利。そう、大収穫さ!彼女の喜ぶ顔が目に浮かぶよ。
あの店主は僕らを若い夫婦だと思ってたみたいだ。それを否定せず、むしろ積極的にそう思い込ませたことに、詮索を避けられて都合がいいという理由がないとは言わない。ただ、そればかりじゃないことも…自分ではっきりと分かってるんだ。
「まあ、ちっとも汚くないのに!」
逆の立場なら僕も心からそう言うだろうけどね!下着だけは自分で履くよ…。熟年夫婦のような落ち着きにはまだまだ遠いということさ。
ただ、それを悪くは思わない。屈託ないその声も、ご機嫌なハミングや踊るように歩く後ろ姿も、まさに若奥様という感じ。つまり、かなり、可愛い。
コートの胸ポケットに挿された薔薇は一夜で少し萎れてしまった。水をあげたら元気になるかもなんて、僕には思い付かなかったことだ。萎れたらもうおしまいな気がしていたから。半日でも、一時間でもいいよ。水を入れたワイングラスに飾られた薔薇が、彼女の優しさに応えてくれればいい。
あれ、もしかして、僕も水をもらったようなものかな?
きついサスペンダーをあの手が歪みなく整えてくれた時、細い風がふっと身の内へ入ってきたみたいに、不思議なくらい窮屈さがなくなったんだ。
「わたしに似合う口紅も、下着も、新しいお洋服も…髪を飾るリボンも……欲しいわ。」
わがままも、そしてやきもちも。自分の望みや感情を霧のように掴めずにいた彼女が、それらを僕に見せるたび、僕も何かを掴めたような思いがする。望むままに何もかもを与えてあげたい。頭から足の爪先まで、すべてを僕の色にするために。
口紅が剥がれても唇は薄く色づいていて、手で挟み込んだ頬は素直に柔らかく形を変えた。頬が歪んでももっと可愛くなるだけなんて、嘘みたいな話さ!ちょっぴり突き出された唇が、赤い実が大好きな鳥の気持ちを僕に想像させもした。
可愛がるようにつつきたい。でも、今すぐ、食べてしまいたい。…そんなところ?